(8)見付学校 | |||||||||||||||||||||||||
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見付学校 「現地説明板」 @史跡 旧見付学校
記録によると明治14年(1881)の見付学校の生徒数は男300名・女182名の482名で、就学率(学校に入った人の割合)は、66%でした。 この建物は大正11年(1922)まで小学校として、その後は中学校・裁縫女学校・教員養成所・病院等として使用されました。現在は学校関係の資料等が展示されています。 昭和44年、国指定となっています。 磐田市教育委員会 A史跡旧見付学校 見付学校を第12中学区内第1番小学校にと地元の熱意で、明治7年(1874)堂宮棟梁伊藤平右衛門の設計で着手、翌8年開校しました。 基礎の石垣は遠州横須賀城の石垣を利用し、間口12間・奥行き5間の木造洋風建てに屋上2層の楼を完成させました。玄関はエンタシス様式の飾柱、分銅付の窓の日本最古の現存木造洋風校舎です。 明治16年(1883)に2階天井裏を改築し、現在の3階2層になりました。 磐田市教育委員会文化財課 ※見付学校について ★特色 @漆喰塗り A玄関にはエンタシス様式をまねた6本の飾柱。
古代ギリシャ建築の円柱にみられる胴がふくらんだ様式。 下端から全体の高さの3分の1ほどのところが最大径をなす胴ふくらみで、そのために力量感があふれてみえる。日本では法隆寺中門・廻廊などの飛鳥建築にこの様式が見られる。 「日本史事典」 旺文社 B窓は分銅をつるした上下式窓 C床は筋違い張り D石垣は横須賀城(大須賀町)の石垣。舟で前川・ぼう僧川・今之浦川・中川を通り運んだ。石の数1,000個以上。 ★現在の校舎 明治8年(1875)開校当時とは異なり、三階二層の五階建てで、開校後児童数の増加に伴い、教室不足を解消するため、明治16年(1883)に三階部分を増築し、三階二層となり、以後「見付の五階校」「五階堂」と呼ばれるようになった。 大正11年(1922)まで使用されたが、それ以後は教育施設・病院等に利用され、現在は「郷土資料館」になっている。 昭和44年(1969)国指定史跡。
(注)酒井の太鼓 (補足)見付学校の開校 明治5年(1872)の学制発布記念を受け、見付学校は翌年8月に宣光寺・省光寺などを仮校舎として開校しました。同時に淡海国玉神社神官・大久保忠利・戸長兼学区取締・古澤脩らを中心にした町の有力者の協力によって資金調達が行われ、新校舎の建設が進められた。 新築工事は、名古屋の堂宮棟梁・伊藤平右衛門(後の9代目伊藤平左衛門)に委嘱し、明治7年(1874)10月に工事着手、翌年1月11日上棟式を行い8月7日落成、開校式を挙げました。 |
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