(16)愛宕神社と阿多古山一里塚 | |||||||||||||
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愛宕神社と阿多古山一里塚 (1)一里塚跡(旧東海道跡) 現地説明板 この一里塚は、見付宿の東はずれに位置し、街道の両側に築かれ阿多古山一里塚と呼ばれている。一里塚は、徳川幕府が主要街道の警備を行い、三十六町を一里として街道の両側を五間四方の一里塚を築き、塚上に目印として榎を植えたものである。 この一里塚は慶長9年永田勝左衛門重真が道中奉行の時に築かれたものと推定され、江戸から六十二里にあたる。 <一里塚は、この階段の上にあります>
(2)見付宿と阿多古山一里塚 「現地説明板」 見付宿は、江戸日本橋から数えて二十八番目、京都三条大橋から二十六番目を数えます。見付宿は中世に作られた狂言「磁石」に「見付は長い町」と紹介されています。江戸時代後期の資料によれば東木戸から、東坂町・馬場町・西坂町・横町と西木戸まで並び、ほぼ中央には南北両本陣や脇本陣が置かれました。西に天竜川を控え、東海道各宿の中でも重要な宿の一つでした。 この見付宿の東側の入口に、阿多古山一里塚があります。この塚は見付の町を見下ろす高台にあり、京へ向かう旅人は、ここから宿場を眺めてホットしたことでしょう。 一里塚は、江戸時代の初期(1604年以降)に整備されました。阿多古山一里塚は江戸から六十二里、京から六十四里の位置にあります。一里塚が残っている所は少なく、さらに阿多古山一里塚のように街道の両脇に塚が現存する例は極めて珍しく、昭和42年(1969)に磐田市の指定史跡になっています。 ※石段を上ったところに愛宕神社。一里塚は神社の裏山にある。 愛宕神社社殿裏山と道を挟んで、民家の宅地内に北側の一里塚があるが、注意して見ないと分からない。
(3)愛宕神社 由緒不明。石段・社殿の建立年代も不明。中段には十王堂の跡がある。弘化4年(1847)の絵図に見えるので、すでにその頃には現在地にあったといえよう。
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