(13)日照山大見寺 | |||||||||||||||||
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(1)宗派 浄土宗京都・知恩院派 (2)本尊 阿弥陀三尊仏 (3)文化財 @見付端城 当寺一帯は中世に今川氏の城館・見付端城(古城)の一画をなし、元禄期の絵図や付近の試掘調査 などにより、その存在がほぼ確認されました。境内の南・西にわずかに残る土塁跡により往時をしのぶことができる。
A良純法親王供養塔 良親王は百七代後陽成天皇の第八皇子で、慶長9年(1605誕 生、寛文9年(1670)薨去されました。寛文9年(1670)薨去されたが、当寺第一代呑誉禿翁(どんよとくおう)和尚は。良純親皇の弟子であった関係から、親王供養のため建てた無縫塔である。もとは、当寺末・徳翁院(市内富士見町)に安置されていたものである。 親王は、京都知恩院の上首(じょうしゅ=長老)になったが、徳川家康(1542〜1616)と不仲になり、甲州(甲斐・山梨県)に流刑されたが、のち許されて帰国の途中、万治2年(1659)頃、縁あって見付に滞在した。弟子であった大見寺第1代住職により親王の死後分骨して、この寺に葬り供養塔が建てられた。 親王はまた「加茂川」などの地名の名付け親でもある。
◎無縫塔(むほうとう) 塔婆(卒塔婆)の形式の一つで四角形・ハッカ形の台座の上に、塔身が卵形をなしたものをいう。卵塔とも呼ばれ、禅僧の墓標としてしばしば用いられた。 「ブリタニカ国際大百科事典」より B伝・鳥人浮田幸吉(?〜1851)の墓 墓標下壇に「浮田氏墓所」と左書。墓碑「釈帝玄居士」。わが国で初めて飛行機を作り、大空を飛んだといわれる。宇喜田秀家(1572〜1655)の後裔というので、浮田幸吉と称したともいう。25〜6歳の頃、鳩(一説には雀)の身体と翼の比例から、自分の体重に合わせて翼を作り、天明6年(1786)備前岡山の旭川の橋の上から河原に飛んで捕らえられ、翼を取り上げられて所払い(ところばらい=江戸時代の自由刑の一つ。一種の追放刑。その居住地から追放すること) になった。諸国を放浪の上、35〜6歳の頃(静岡市)江川町に落ち着き、備考斎幸吉を名乗り、初めて時計師をしたが、のち「入れ歯師」として有名になった。次第に弟子もでき、2代目備考斎もでてきて、静岡では備考斎は歯医者の代名詞となった。駿府に来てからも、浅間山から服織(はとり)の建徳寺(たきようじ)迄飛んだとか飛行の話が伝えられている。62歳で死に静岡市大工町福泉寺に葬られた。 地元見付では、静岡も追放になり見付宿に来て、侠客(きょうかく)大和田友蔵の世話になり、飯屋を営みこの地で90歳で弘化4年(1847)没した。ライト兄弟が北カロライナ州で、人類最初の直線飛行に成功したのは、1903年である。
(注)侠客 (注)町奴 (注)新門辰五郎(1800〜75) |
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