(4)一ノ谷中世墳墓群遺跡
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(4)一ノ谷中世墳墓群遺跡
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 @一ノ谷中世墳墓群遺跡について  「現地説明板」
   ここに復元したものは、この地区内にあった約2,00基を数える日本最大規模の中世墓地のうち、代表的な墓を復元・型取りしたものです。この墓は鎌倉時代中頃(約750年前)から約350年間に造られたもので、中世地方都市と墓地との関係が注目された遺跡であります
説明板 遺跡全景

 A主な墳墓の概要
 ★塚墓について  「現地説明板」
  土を盛り上げて造られた墓で、まわりには溝がめぐっています。上から見た形は正方形または長方形で、一辺の大きさは1,6m〜7mと様々です。遺体は塚の中央に埋葬され、土葬にする方法と火葬にする方法の2種類がありました。
  13世紀後半から14世紀後半にかけて、丘陵平坦部を中心に東斜面にも一部造られていました。
塚墓説明板
  • 塚墓(1)
     一ノ谷遺跡で最も大きい墓です(一辺7m)主体部から鉄製の矢じりが出土しました。盛土は復元です。土を盛り上げて造られた墓で、まわりには溝がめぐっています。
    形は正方形または長方形で、大きさは一辺1,6m〜7mです。
    遺体を埋葬したところ(主体部)は、塚の中央部に設けられ、土葬にする方法と火葬にする方法の二種類がありました。13世紀後半から14世紀にかけて,丘陵平坦部を中心に東斜面にも一部造られていました。
    大きな塚墓
  • 塚墓(2)
      塚墓の中で最も小さいもので(一辺1,6m)。新しい時期のものです。盛土は復元です。
    小さな塚墓

 ★集石墓(1)     「現地説明板」
   石を集めて造られた墓です。正方形または長方形で、一辺120cm〜150cmのものが多く見られました。中央部に火葬骨が納められ、中には壺に入れられたものありました。この遺跡では最も数が多く、形も多く、変化に富んでいました。この遺跡全体に分布しましたが、東斜面では階段状にテラスを削りだして塚墓が造られていました。
集石墓(1)

 ★集石墓(2)
  集石墓の中でも数段の石を積み上げ、高く造られた墓です。正方形のものが多く、内部を土で埋めて最上部に火葬した骨が埋葬されていました。中には骨を壺に埋納されたものもありました。
  塚墓に付設されたものにこの形が見られ、また他の集石墓よりも先に造られていることから、集石墓の中でも古い時期に造られた墓
でしょう。
集石墓(2)

         
 ★土坑墓
 土葬のために長方形の穴を地面に掘った墓。長さ160cm、幅90cmのものが一般的で、手足を折り曲げて埋葬されていたようです。
  遺体と共に副葬品として、土器や鉄器が納められていました。副葬品の多くが、土坑内の北に集中していることから、遺体は頭を北にして置かれていたことが分かります。
  13世紀後半以降に造られ、遺跡全体に分布していました。
 ※中型の土坑墓です。この大きさもものが多く見られます。長さ160cm、深さ65cmあります。
土坑墓

※中型の土坑墓です。この大きさのものが多く見られます。長さ160cm、深さ65cmあります。
  
 ★火葬遺構
   遺体を火葬にした場所です。長方形に掘られた穴の内面は熱によって赤く焼け、燃料 が炭として残っていました。火力を増すために細い溝が掘られたり、一段深い部分を設けたり、工夫がなされているものもありました。
  いずれも、土の焼け具合が弱いことから、2回以上の使用は少なかったようです。骨がきれいに片付けられていたものと、中には骨が残り、そのまま墓として利用されたものがありました。
※棺や燃料に使われていた木が炭化して残っています。中央の穴は火力を強めるためのものです。…右側
※火力を強めるため、中央に長い溝が掘られています。左右のくぼみには、遺体を乗せる木が渡されたのでしょう。…左側
火葬遺構



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