(14)珠玉山宣光寺 | |||||||||||||||||
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(1)宗派 曹洞宗(浜松普済寺末) (2)本尊 十一面観世音菩薩 (3)沿革 開創年代不詳。開山は豊川妙厳寺25世大淵龍道和尚
@梵鐘…県指定文化財 安土桃山時代作 徳川家康の寄進。大正15年(1587)家康が駿府城に移った翌年に戦没者供養のため、延命地蔵にその冥福を祈り寄進。 銘文「天正拾五亥年霜天廿四日 大檀越源家康 敬白」 ※檀越(だんおつ)…施主 ●「宣光寺の梵鐘」 現地説明板 この梵鐘は、徳川家康寄進によるものであります。天正15年(1587)戦国時代の戦いに戦死した多くの武将の爲に、家康が信仰の厚かった延命地蔵菩薩に、その冥福を祈って寄進したものであります。世界大戦の折りには、家康の銘文のある梵鐘のため、供出は免れました。史上といい地理上といい誠に貴重な古鐘であります。
A延命地蔵菩薩像 県指定文化財 鎌倉時代作 人々の延命利生(りしょう=仏が衆生を利益すること)を釈迦牟尼に請願する地蔵。新しく生まれた子供を守り、短命の難を免れさせるといわれる。かつては、60年に一度開帳されていたが、現在は一般に公開されている。毎年11月24日が大祭。膝上の高さ140cm、日本三大地蔵の一つといわれる。 永暦元年(えいりゃく=1160)讃岐の仏師により造像。天正6年(1578)に仏師・式部法眼(しきぶほうげん)により修理。更に明治末期に衣などに彩色され今日に至っている。桧の寄木造、内ぐり、彫眼などの技法を用い、その表現は丸みを帯びた平安末期の作風を反映している。また、右足を踏み下げた半跏(はんか=半跏趺坐の略=片足を他の足の股(もも)の上に組んで座ること)形式の地蔵初期の造りで、左手に宝珠、右手に錫杖(しゃくじょう)をとり、台座は岩座の上に蓮台をのせている。 ●宣光寺の「身代わり地蔵」縁起 「現地説明板」 元亀3年(1572)三方原の戦いで、敗北した徳川家康は、見付に逃れ火を放った。地蔵は逃げ惑う人々を助けるため、幼児に化身して身に火傷を負いながら火を消して廻った。その功徳により、多くの人々は難を免れた。深く地蔵に帰依した家康は、後に天下人となった。 以来、心や身体の苦しみなどの災難を、身代わりになってくれる仏として信仰を集めている。 例祭毎月24日 大祭10月
B子育如来像・子育地蔵尊 市指定文化財 江戸時代作 鉈(なた)彫りの一木造。木喰上人(もくじきしょうにん=)1536〜1608)作と伝えられる。やさしく両手にしっかりと小児を抱いている素朴な像。 ※延命地蔵の厨子の左右に安置
C毘沙門天像 県指定文化財 鎌倉時代作 厨子の中に安置 桧の一木造。四天王の一人。多聞天とも呼ばれる。忿怒(ふんぬ=憤り怒ること)の相の武神形で甲冑をつけ、仏天の北方世界を守り、財宝・富貴を支配する善神。 D算額 市指定文化財 江戸時代 算額とは、江戸時代から明治・大正にかけて寺社に掲げられた数学の絵馬。算額の奉掲示は、塾の発展や家内安全・各自の研究祈願など様々な目的をもつ。和算(わさん)の発展に寄与した。 ★和算 中国の数学を手本に日本人が開発した数学。狭義には關孝和(1640頃〜1708)から明治初期までの数学をいう。 (注)関 孝和(1640頃〜1708) |
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