(21)旧赤松家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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(1)旧赤松家 赤松家は近代日本造船技術の先駆者として又明治期に磐田原台地に茶園を開拓した赤松則良が、明治26年(1893)見付の地に築いた邸宅跡である。 ●旧赤松家利用案内 開館時間 午前9時〜午后4時30分 休館日 月曜日(月曜日が祝日または振替え休日のときは火曜日が休館日) 国民の祝日の翌日(土・日・月曜日にあたるときは火曜日が休館日) 年末年始(12月29日〜1月3日) 入館料 無料 煎茶(いわた茶)提供 有料 おねがい ○旧赤松邸内は全面禁煙です。 ○邸内では許可なく飲食はしないでください。 ○犬・猫等ペットを連れての入館はご遠慮ください。 ○その他入館者の妨げになる行為はやめてください。 磐田市教育委員会 (2)赤松則良 静岡藩士、海軍軍人。幕臣吉沢雄之進の子。実祖父赤松泰介の養嗣子。旧名大三郎、坪井信道。信良らに蘭学を学び、安政4年(1857)番所調所句読教授方出役(でやく)に任命された。 また長崎海軍伝習所に学び、軍監操練所の教授を務め、万延元年(1860)には咸(かん)臨丸(りんまる)の測量方兼運用方として太平洋を横断した。文久2年(1862)幕府の留学生としてオランダへ派遣され、榎本武揚(1836〜1908)沢太郎左衛門らとともに海軍の勉強をした。慶応4年(1868)帰国。徳川家の移封に従い遠州見付(磐田市)に移住し、沼津兵学校一刀教授に任命された。附属小学校の掟書を起草したり、その校舎を設計するなど、同じオランダ帰りの頭取西周(にしあまね)(1829〜97)をよく補佐し、兵学校の運営にあたった。政府の朝命により上京、海軍兵学寮に出仕し大教授となった。以後、明治7年(1874)海軍少将・海軍大丞・横須賀造船所長、明治9年(1876)海軍省副官・主船局長・機関本部長・国防会議議員、明治19年(1886)海軍造船会議議長・兵器会議議長、明治20年男爵・海軍中将といった経歴をたどり、明治25年(1892)予備役となり見付に隠棲した。明治30年(1997)から大正6年(1917)までは貴族院議員を務めた。林紀・林菫(ただす=1850〜1913)・西紳六郎・榎本武揚(1836〜1903)らとは姻戚関係により義兄弟の間柄になる。孫の照彦は磐田市長・磐田東高校理事長・校長を務めた。 「静岡県 歴史人物事典」 静岡新聞社 P10 ※日本造船技術の先駆者 赤松則良 「現地説明板」 赤松則良は、天保12年(1841)幕臣吉沢雄之進の次男として江戸に生まれ、祖父の跡を継いで赤松姓を名乗りました。安政4年(1857)17才で蕃所調所句読教授出役を命じられ、同年長崎伝習所第三期伝習生を命じられて、長崎でオランダ語を勉強しました。翌年日米修好通商条約が締結されると、則良は勝海舟(1823〜99)らとともに咸臨丸で批准書換の使節団に随行し、文久2年(1862)オランダへ留学して造船技術などを学びました。 大政奉還した徳川慶喜が駿府へ移り住んだのち、則良は徳川家に縁のある見付に移り、磐田腹開墾に着手しました。また、沼津兵学校創立のときに教授として招かれ、西周(にしあまね=1829〜97)らとともに兵学校の基礎を築きました。その後則良は、勝海舟の勧めもあって明治新政府に仕え、明治20年(1887)海軍中将男爵となり、大日本帝国海軍の拡充・強化に尽力しました。 明治25年(1892)頃、見付に本籍を移し、貴族院議員を務めましたが、明治45年(1912)に妻・貞(てい)が亡くなると、長男範一の東京・千駄ヶ谷の屋敷に移り住み、大正9年(1920)に78才で亡くなりました。
(3)旧赤松家の建造物 @旧赤松家門・塀・土蔵(静岡県・磐田市指定文化財 建造物) ここに復元した門・塀・土蔵は、近代日本の造船技術の先駆者赤松則良によって、明治25年ころに建てられた。門を中心に両側に延びる塀と、2棟の土蔵で構成される。 門は切妻造りの一戸門で、左右に門番所が併設される。門番所は布石積(ぬのいしづみ)基礎の上にフランス積みのレンガ造りとし、上部は木造漆喰塗仕上げされる。 塀は三和土(たたき)の基礎に長手積み手法によるレンガ積みの部分と、三和土積みだけで成り立つ部分が併用されている。 北側の土蔵の壁は塀と一体をなすが、南土蔵は単独で建てられている。三和土積みと、レンガ積みが併用された姿は、明治建築の特徴をよく表現している。 磐田市教育委員会文化財課 A門・門番所(県指定文化財) 「パンフレット」 に門衛・右側に供侍が設けられている。 門番所は、布石積基礎の上にレンガを長手と小口を交互に積んだフランス積といわれるレンガ造りが特徴。 ◎門衛所(門番所) 「現地説明板」 門を出入りする客などを、監視したり案内したりする役目をする者(門番)の居場所です。 明治41年(1908)の赤松則良直筆の屋敷実測図には「門衛」と記されています。 入口の扉や畳敷の床の広さ、押し入れの設置などについては、平成6年の調査によると、改築等で変更された跡の存在がわかっています。 この門衛所の北側には、便所が設けられていた時期もありました。
※【公木】(赤松家親族の回覧書)明治40・8・6には 赤松則良の五男の小寅が「見付の夏」と題して、次のように書いています。 『……父上は、相変わらずの御壮健。炎天下、玉なす汗で草むしり。母上は座敷で御心配。……大好きなのは、大工とみえて、……今では御門の御模様替えの最中……』 ◎塀(県指定文化財) 「パンフレット」 レンガ積みと三和土(たたき)積みが併用されている。門を中心とする部分には、基礎の三和土、上部にレンガが用いられるが、それ以外は、三和土のみである。 レンガ塀は長手積み手法が用いられ、一定間隔に柱を立てている。 ※レンガ塀は、門を入った中庭の一画を囲む部分と、門に向かって右手にL型に延びる部分からなります。L型の角に番所があり、現在の「天宏」の入口付近に南門がありました。
B土蔵…伝統的な土蔵造りの建物ですが、腰回りを煉瓦壁とする意匠に煉瓦を用いてあるのが特徴です。この土蔵は、米蔵として使用していました。棟束(むねづか)に打ち付けられた棟札に「明治23年(1900)12月6日上棟」と書かれていますが、二階梁や小屋梁のほとんどが転用材でしたので、おそらく後年に赤松家旧建物の廃材を使って補修したものと考えられます。 ★北土蔵(米蔵) 市指定文化財 「パンフレット」 正面は塀のレンガ積みと一体をなし、両側面は下部にレンガ積み、上部は四周とも漆喰塗で仕上げられている。 木造二階建て、屋根は切妻瓦葺きである。米蔵として使用されていた。現在は展示室として一般公開されている。
★内蔵 明治期、旧赤松家の屋敷東端に、屋敷続きで四間・二畳半の蔵があった。この内蔵はほぼその位置にあるが、当時の蔵ではない。 現在1・2階とも展示室に使用している。
★南蔵(図書館) 市指定文化財 「パンフレット」 下部を石積み基礎とし、上部は漆喰塗仕上げである。書庫として利用され、」その膨大な蔵書から「赤松文庫」と呼ばれた。 北側は、当初廂だけであったが、後に部屋として改造されている。 ※赤松文庫読書会が行われた「図書蔵」 現地説明板 この図書館は、赤松家の蔵書部屋として使われ、江戸学の研究者として東京で活躍していた赤松範一の蔵書が多く保存されていました。 かつて磐田市立図書館長の柏木広吉が、初代磐田市長の赤松輝彦の協力を得て、書籍の貸し出しや書物についての懇談を行う「赤松文庫読書会」を企画し、昭和25年(1950)第一回例会を開催しました。 現在、この蔵書のうち一部は国会図書館や静岡県立図書館内の葵文庫へ、その他多くは磐田市立図書館に「赤松文庫」として修造されています。 『磐田人物往来〜図書館の創設と不朽に携わった人々〜』より (2008年11月現在 改修中)
C旧赤松記念館 旧赤松家に関する文化財や寄贈資料等を中心に常設展示。
★建物の構造 ・近代和風木造平屋建て(144,92u・43坪) ・旧赤松家母屋の主要部分をイメージ。 ・展示室・和室・事務室 ★主な展示品 ・槍銘包直(かねなお)室町時代中期 市指定文化財 ・桐唐草紋 食籠(じきろう) 食籠 食物を入れる容器。唐金(からがね)または堆朱(ついしゅ)で製し、多くは蓋があって形は丸い。 「広辞苑」 ☆唐金…青銅(中国から製法が伝わったから) 「広辞苑」 ☆堆朱…彫漆の一種。朱漆を百回以上塗り重ね、その漆の層に山水・花鳥・人物などを彫りだしたもの。中国の宋代以後盛んに行われ、日本には鎌倉時代に輸入され、室町時代から造られた。盆・香盒(こうごう)・印籠などに施す。 「ブリタニカ国際大百科事典」「広辞苑」 ・吉野山蒔絵硯箱 市指定文化財 ・勝海舟書簡(明治中期) ・紙本金地著色源氏物語屏風(江戸時代後期) 市指定文化財 Dその他 ★水屋 「現地説明板」 食器類の洗い場として使われていました。三和土(たたき)製の水場と円形の井戸がありました。水屋は四阿(あずまや)で、4本の柱の上に鉄板葺の方形(ほうぎょう)屋根が組まれ、上部に瓦製の露盤宝珠(ろばんほうしゅ)がありました。
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