3 大須賀町 | |
国道150号線 〜沿線の史跡を訪ねて〜 1 竜洋町 (1)貴船神社 (2)袖浦公園 (3)掛塚灯台 (4)その他 2 浅羽町 (1)郷土資料館 (2)馬伏塚城跡 (3)了教寺 (4)龍冨山 松秀寺 3 大須賀町 (1)景江山撰要寺 (2)横須賀城址 (3)寂静山本源寺 (4)普門寺 (5)龍眠寺 (6)大淵山窓泉寺 (7)三熊野神社 4 大東町 (1)高天神城跡 (2)松本亀次郎公園 (3)吉岡弥生記念館 (4)吉岡弥生生誕地 (5)梅月山華厳院 5 浜岡町 (1)池宮神社 (2)その他 6 小笠町 (1)正林寺 (2)黒田家住宅と代官屋敷資料館& 7 相良町 (1)相良町史料館 (2)竜門山大興寺 (3)大鐘家 (4)相良油田 (5)その他 8 吉田町 (1)小山城 (2)能満寺 |
大須賀町は、古い看板、昔の佇まいを残す商家などに、城下町の風情を残す町並みを ゆっくり歩きたいものだ。国道150号線より南に行った所に、清明塚があるようだが見付けることが出来なかった。帰りは「サンサンフアーム」で、一休みして、地場産品や土産物などを買うのもよいだろう。 (1)景江山撰要寺 大須賀町山崎1305 電話0537−48−2293 (大須賀町の案内板) 大須賀康高(1528−89)は徳川家康(1542−1616)の命により武田勢攻略(天神城攻め)のため、現撰要寺の地に布陣して天神城を攻めたという。天正六年(1578)家康の命を受けて康高は横須賀城の築城を初め天正八年(1580)に完成し初代城主となった。天正九年(1681)康高は中内田村(現菊川町)応声教院廿七世岌屋春阿上人を請じて撰要寺を創建した。 西は入江に面し、風光絶景の地であったので山号を景江山として、寺名は浄土宗の「撰釈本願集」と「往生要集」よりとって撰要寺と名付けた。(昔は西側の田は横須賀港で「うばがふところ」と云われ、遠州灘の中で唯一避難港であったが、宝永・安政の地震(宝永4年=1703・安政元年・2年=1854−5)の大地震などによって隆起して浅瀬となった) 天正十二年(1684)康高は寺領五十石を寄進し菩提寺と定め、慶長六年(1601)又十石を寄進し、歴代城主の庇護(ひご)を受け、十万石の格式で遠州一の寺格であったという。山門は横須賀城の不開門(あかずの門)を明治の初め廃城時にここに移築したもので総松材造りで「丸に立葵」の紋章がつけられているところから十二代城主本多利長の在城時代(正保二年=1645〜天和二年=1682)の建造で町指定文化財である。 本堂西側石玉垣の中には初代横須賀城主大須賀康高と二代・五代城主大須賀(松平)忠政の墓(宝篋印塔二基)その右側には元禄年間江戸より横須賀に来て当時繁栄した横須賀湊で廻船問屋を営み大いに材を成した来家多七と伝える大石仏や墓地中央には、天神城の武将小笠原家一族の五輪墓塔四基、さらに奥地には城主本多利長家の一族(石玉垣内は岡崎城主の父・祖父・曾祖父)の巨大な墓塔群がある。これは利長在城中に前任地の三河岡崎より海路運ばれたものである。大須賀家・本多家一族等巨大な墓塔群は県指定文化財である。その他歴代の家臣の巨大な五輪墓塔など多数ある。また数多くの什宝・織部燈籠(カクレキリシタン灯籠)西尾城主の抱絵師大久保一丘筆の真人画(建指定文化財)など有名で横須賀城築城以来の歴史を目前にしのぶことができる。 大須賀町 ★景江山撰要寺掛川市横須賀1305 電話0537−48−2293 (教育委員会の案内板) この景江山撰要寺(浄土宗)は、天正九年(1581)横須賀初代城主、大須賀康高(1528−89)の創建である。 本堂西脇の石垣の中の宝篋印塔は、向かって右が初代城主康高(天正十六戌子年六月二三日没)、左が二代・五代城主で孫の大須賀出羽守忠政(慶長十二年九月十一日没)の墓塔で、高さ約四米ある。忠政は家康(1542−1616)の関東移封により上總久留里城(千葉県君津市)に転じ、その後再びこの地に戻り五代城主になる。 この墓の右横には、元禄年間横須賀湊繁栄時に江戸より来て財を成した、回船問屋来家多七夫妻を供養したと伝えられる大きな石造如来像が、元禄十四年(1701)六月十五日、石工佐藤伝七により営造されている。 墓地中奥西側には天神城主一族の小笠原氏(天正・文禄・慶長・寛永時代)の重厚な五輪塔が並んでいる。 本堂背後の山中には、十二代城主、本多越前守利長の一族の家臣の墓百数十基が整然と並んでいる。利長は三十七年間在城したので、三河岡崎城主の父・祖父。曾祖父の五輪塔を岡崎より海路運んでこの地に移している。天和二年(1682)十三代城主西尾家の墓標も多数ある。 大須賀町教育委員会 (注)大須賀康高 (注)本多利長 (2)横須賀城址 掛川市横須賀 (文化庁・県教委の案内板) @史跡横須賀城跡 国指定年月日 昭和56年5月8日 文部省告示80号 指定面積 約16万8千平方メートル 横須賀城(別名松尾城)は、小笠山の支脈が南へ延びて平地に接する地点に位置した平山城であった。 天正三年(1573)長篠合戦の勝利をうけて、武田勝頼(1546−82)の天神城を奪還を企図した徳川家康(1546−1616)が、天正六年(1578)から同八年(1580)にかけて、武将大須賀康高(1528−89)に命じて築城させたもので、次いで同人を初代の城主に命じた。爾来城主二十代約三百年の間武門の拠点、藩政の中心となっていたが、明治維新(1868)に際して廃城となった。 城跡の天主台・本丸・西の丸・北の丸・松尾山・空壕等の遺構は、ほぼ旧態を残しており、武田方の諏訪原城跡(金谷町牧之原字元宿=JR金谷駅から徒歩30分)武田・徳川方の争奪地となった天神城跡(大東町土方=掛川駅からバス25分)【いずれも国史跡】とともに武田氏の進出と衰亡、徳川氏の成長過程を知る上にも貴重な文化財である。 昭和56年12月 文化庁 静岡県教育委員会 (大須賀町教育委員会の案内板) A国指定史跡横須賀城跡 横須賀城は今からおよそ四百年前(1578)天正年間に徳川家康(1546−1616)の命によって、その武将大須賀康高(1528−89)が築城して、初代城主となった城です。当時は、徳川・武田の両軍が天神城をめぐって激しい攻防戦を繰り返していた戦国騒乱のさなかで、武田方の天神城に対抗し武田の西方進出を押さえ た普通一ヶ所しかない大手が、東西二ヶ所にあることや、玉石積みの石垣も特徴のひとつです。 ■明治維新の廃城と国史跡指定 明治元年(1868)20代城主西尾忠篤は、明治維新の激動の中、安房國花房(千葉県鴨川市)に移され、横須賀藩領は徳川家達(1863〜1940)の領地となって、静岡藩に含まれました。明治2年(18969)8月には、横須賀城も廃城になりました。明治6年(1873)には、城内の土地・建物・石垣・立木まで民間に払い下げられて、町並みや田畑が形成され、更に堀も埋め立てられ城としての景観を失いました。そして昭和46年(1971)には本丸一帯を宅地化する計画が持ち上がり、この城跡消滅の危機に住民から城跡保存の声があがり、昭和56年(1981)5月8日付けで國史跡に指定されました。以後、土地公有化と遺構復元整備が進められています。 ■横須賀湊と横須賀城 江戸時代中頃まで、城のすぐ前から北西裏にかけて、遠州灘から入り込む入江があって、横須賀城を天然の要害としていました。 入江には横須賀湊があり、大きな船も寄港し水上交通と物流の拠点となっていました。また、この入江と外堀を区切る形で中土井と呼ばれる土手があり、横須賀から袋井に通じる街道となっていました。小笠山を挟んで立地する掛川城が、陸の大動脈東海道の押さえであったのに対して、横須賀城は海辺の道と海上交通の要衝である遠州灘の押さえとして重要であったと考えられます。 城前のこの入江は、宝永4年(1676)の宝永大地震による地盤隆起によって干上がり、横須賀城周辺の様子は一変するとともに湊も使えなくなり、横須賀城と城下町は軍事と経済面で大打撃を受けたと考えられます。湊が使えなくなった以後は、西方の太田川河口の福田湊まで運河が造られて小舟が行き来しました。 B見所 ◆天守台の遺構 横須賀城の天守は建坪40坪余、4層の建物と記録されています。ここからは礎石と礎石を抜き取った穴がおおよそ2mの間隔で碁盤目状に27個検出され天守跡と考えられます。天守台周囲には低い石垣があり、東南隅には入口と考えられるスロープがあります。建物跡東側には、砂利敷された平坦面があり、北側には防御のための土塁がありました。天主台の周囲からは天守に使われた瓦が多量に出土しており、西側からは鯱瓦の頭部が、南側からは尾の部分が出土しました。 ◆本丸跡土坑群(昭和63年度発掘調査) 土坑とは、色々な用途のために地面に掘られた穴の事です。この土坑からは17世紀〜18世紀にかけての陶磁器累などが出土しています。 ◆土塁跡(昭和63年度発掘調査) 土塁とは外敵の侵入を防ぐために小高く築かれた土手の事です。当時の絵図を見るとこの土塁の上には、白壁の塀があったようです。 ◆三日月池 当時の堀で、現在残っているのはこの堀跡だけです。この城の初期にあった内堀の名残といわれています。 ◆西の丸建物跡(昭和62年度発掘調査) 現在みられる石の下から、こぶし大の石をたくさん集めて造った柱石の基礎が検出されています。 (3)寂静山本源寺 掛川市大淵5431 電話0537−48−2413 (大須賀町の案内板) 横須賀城十一代城主井上河内守正利の父・井上主計頭正就(かずえのかみまさなり)(十代城主)は、徳川二代将軍秀忠(1579〜1632)の父兄弟として育ち、小姓より老中まで出世したが、息子の正利及び娘の婚姻のもつれによって、豊島刑部明重により、江戸城中において刃傷され殿中にて死亡した。 正利は、父の菩提を弔うため寛永五年(1628)当寺を建立した。正利は千葉県下総中山法華経寺の寂静院日賢上人をかねてから.敬っていた。日賢は中山法華経寺を退き、三州尾尻村長福寺に隠居していたが、大久保彦左衛門(忠教=1560〜1639)の口添え、招請し寛永8年(1631)開山と仰ぐ。開山・寂静院殿隆昌日操大居士の戒名より源をとって本源寺と称する。 開創以来十二年にして諸堂宇が落成した。創建の地は城の鬼門除けとして坂下の谷(この地より一つ西の谷)の現在ある通称谷の御稲荷様の東側にあった。その後正利が常陸國笠間(現茨城県笠間市)へ城替え後、甥の本多利長(1598〜1637)が三州岡崎城より横須賀城主になり、漢文3年(1662)の頃、寺院由緒取り調べにより、小休止、本山直轄になる。菊の花を表した本堂の格天井・拝殿の長押の彫刻に往時を偲ぶことができる。開基・井上正利から黒印地及び除地山林など寄付を受けたが、その後も代々城主の黒印証を保存している。当時は開山日賢より現住職・松下貞賢師まで二十四代清爽三百五十有余年の歴史をもっている。 ◎山門 かつて城内にあった搦手門を移築したと伝えられ、当町内に残存する同じ様式の山門の中では最も古いもので、江戸中期の形式を残している。 ◎境内堂宇(町指定文化財) 稲荷堂及び門前東側山腹にある観音堂(山伏塚)は、当地で没した後醍醐天皇(1288〜1339在位1318〜39)の皇子護良親王(1308〜35)の第二皇子を葬った場所として伝えられている。 ◆城主井上氏墓塔(町指定文化財) (大須賀町教育委員会の案内板) 元和9年(1623)井上正就(1557〜1628)は、横須賀城十代城主として五万二千石で入封した。正就は、当地西大淵に住んでいた井上半右衛門の子で、母が二代将軍徳川秀忠(1579〜1632在職1605〜23)の乳母として、浜松城へ正就も共につとめ重用され、小姓より出世し、天和3年(1683)より老中職についた。老中という多忙な職にあったため、城主となっても一度も藩領を訪れることなく、寛永5年(1628)正就は江戸城中にて、子供の縁談が春日局(1579〜1643)の指図で破談となり、仲人役旗本豊島明重(1579〜1628)に着られ絶命した。子の十一代城主正利が遺領を継ぎ、本源寺を建立して父の菩提を弔った。 家康が遺訓である「人の一生は遠き道を……」秀忠の使者として度々駿府の大御所に伺候した折、家康の「いましめ」の言葉を書き留めた「井上聞書」の中から、後の学者が明文化したもの。 大須賀町教育委員会 (注)井上正就 (注)豊島明重 (4)千手山普門寺 掛川市西大淵6429 @普門寺縁起 当山は慶雲元年(704 きょううん)文武天皇(683〜707在位697〜707)の勅願により、行基菩薩(668〜749)開創。 法相宗十三世相続き、十四代目より比叡山座主宮の直末、天台宗に改宗する。基後八十代高倉院(1161〜81在位1168〜80)の御宇(ぎょう)(御代(みよ))治承元年(1177)、平重盛公(1138〜79)が伝教大師(最澄=767〜822)直作の聖観世音菩薩を安置して、高倉院帝御病気平癒と遠州海上安全無難の為の諸堂を再建。基後永禄〜元亀の兵乱に罹り、堂宇過半焼失し衆徒四散、然るに天正三年(1575)当山中興豪憲師歸住し、一山を再興し、大須賀康高(1528〜89)公、諸堂を再建する。徳川氏の御代に至りて、寺領三十七石の御朱印を附せられる。明治維新(1868)上地(じょうち)(上知とも書く。土地をお上に返納すること)となり今日に至る。開基より現住職まで百二十代目です。 平成十一年(己卯)八月 弁財天 弁天堂 西大谷 観音 総本坊 普門寺 観音堂 A西大谷三十三観音堂について ・観音堂案内図 ・西大谷三十三観音堂案内 観音堂は今から180年前に全部完成した。当時の横須賀の小野治郎八・清水八十郎の両人が主な願主となって、町内や近在に呼びかけてお堂を建て、この年(寛政9年=1797)の三月末から四月五日まで開眼供養を行った。 三十三の観音堂の石仏は、普門寺を中心に見晴らしの良い山の上、暗い木立の中に点在している。昭和56年(1981)より3年にわたり、小山めぐりの遊歩道が整備された。 大須賀町 (5)平等山龍眠寺 掛川市西大淵5654 横須賀城主・西尾氏は、第十三代城主忠成が信州小諸より入封し、以後八代一七八年間(明治初年まで)続き、安定した時代を物語っている。墓塔は、東より忠成の祖父忠永(土浦城主)父忠照(小諸城主)を合わせ整然と並び、忠成・忠尚(老中を勤めた)・忠需(ただみつ)・忠(ただ)移(ゆき)・忠固(ただかた)・忠受(たださか)・忠(ただ)篤(あつ)の九基がある。櫛松(櫛の峰に松を配したもの)の家紋入りで、中には金箔を施したあとがあり立派なものである。最後の城主忠篤は、明治二年(1869)花房藩に移封されたため、埼玉県原市町妙厳寺に西尾家の祖である吉次と共に祀られている。西北の石垣の外には、若くして亡くなった西尾忠宝(下野黒羽藩大関家に養子に行き、幕府の初代陸軍奉行・初代海軍奉行をつとめた大関増裕の父)の墓を始め、西尾家家臣の墓が数多く見られる。 大須賀町教育委員会 横須賀城主(13代〜20代) ※西尾隠岐守忠(ただ)成(なり)。 13代横須賀城主。2万5千石。在城期間天和2〜正徳3年(1682〜1713) ※西尾隠岐守忠(ただ)尚(なお) 14代横須賀城主。3万5千石。在城期間正徳3〜宝暦10年(1713−60) ※西尾主(もん)水(どの)正(しょう)忠(ただ)需(みつ) 15代横須賀城主。3万5千石。在城期間宝暦10〜天明2年(1760−82) ※西尾隠岐守忠(ただ)移(ゆき) 16代横須賀城主。3万5千石。在城期間天明2〜享和元年(1782−1801) ※西尾隠岐守忠(ただ)善(よし) 17代横須賀城主。3万5千石。在城期間享和元年〜文政12年(1801−29) ※西尾隠岐守忠固(ただかた) 18代横須賀城主。3万5千石。在城期間文政12〜天保14年(1829−43) ※西尾隠岐守忠受(たださか) 19代横須賀城主。3万5千石。在城期間天保14〜文久元年(1843−61) ※西尾隠岐守忠(ただ)篤(あつ) 20代横須賀城主。3万5千石。在城期間文久元〜明治元年(1861−68) (6)大淵山窓泉寺 掛川市西大淵5532 電話0537ー48−3230 @縁起 大淵山窓泉禅寺(曹洞宗) ご本尊釈迦牟尼如来 当山は、横須賀城初代城主大須賀康高(1528〜89)が亡き室(妻)の菩提を弔うため天正七年(1579)現在の地に建立した寺である。亡室の戒名は桂院殿清心窓泉大姉である。 当山の開山は茂嶽洞繁和尚で、康高の実の叔父にあたる。この地に寺を建立する以前は、天台宗で現在の大須賀町本谷寺ケ谷の地に荘厳な伽藍が建っていたが、山津波(山崩れの大規模なもの。土石流)にあい壊滅したといわれている。その後、大須賀町清ケ谷に伽藍が建立され、今でも「窓泉寺囲(かこい)」という地名が残っている。 康高は寺建立後も亡室のため追善の湯茶会を催し、また境内は勿論門前及び周囲の山林を寄付した。その後城主は代々黒印をこの寺に賜る。十二代城主本多利長(在城期間1645〜82)の時に、大須賀出羽守忠政(二代1588〜90・五代1601〜7)が黒印を紀井大納言の墨付をもとに、徳川家光(1604〜51在職1623〜51)の朱印に改め、徳川代々家(いえ)茂(もち)(1846〜66在職1858〜66)までの朱印九通を残している。開山茂嶽洞繁和尚より六代繁山ァ茂和尚迄の間に建立された末寺は八ケ寺を数えた。文化八年(1811)九月五日の夜、開山以来の本堂その他の堂宇を焼失した。その後天保四年(1833)十五代中興金山大底和尚の時再建し、現在に至っている。 (注)黒印と朱印 A山門(二階楼門)は県指定文化財である。 山門は宝永八年(1711)に商家(しょうか)三河屋本家の寄進により造営されたもので、一間楼門・上層は桁行三間・梁間二間・隅柱間隔が下層と同寸の通し位置立て、入母屋造、当初は寄棟造茅葺を延享元年(1744)桟瓦葺に改めた。扇垂木(別名傘垂木)の軒裏は黒色に、全体を朱色に塗り上げ和洋調の強い古風な二階楼門で、しかも安定した端麗な姿は地方ではまれに見るものである。山門の下から真上を見上げると扇(傘)垂木は数少ない貴重な造りであることがわかる。そして四百年余の歴史の数々が目にふれます。 大須賀町 (7)三熊野神社 掛川市西大淵5631−1 (現地案内板) 三熊野神社(通俗は総社及び三社様) 御祭神 伊邪那美命(伊弉冉尊) 早玉男命 事解男命 当神社は、大宝元年(西暦七〇一年)九月九日、第四十二代文武天皇(630〜707在位697〜707)の御勅願により、紀州熊野三社を勧請した。文武天皇の后宮子(藤原不比等の娘)は、ご懐妊を願って「安産で皇子が誕生したら、東に三つの社を建て、勧請して日夜敬い申し挙げます」と、幼時より深く信仰している熊野神社に祈願した。真心込めた願いはやがて天に通じ、無事に皇子が誕生(後の聖武天皇)。天皇も后も大変間隙なされ、お願いが成就したからにはと、急いで東の国に社を建てる事にした。幸いな事には、東に貢物を納入してくる鎮国の遠江国があるので。勅命で司宮奥野左衛門是吉を派遣し、場所を探させた。是吉が当地に来てみると、南は大海原で渚も清く、北は山また山の続く地形なので「本宮の境内に異ならず」と、当初に本宮、三里(十二キロ)東の高松に新宮、北の小笠山に那智と三社の宮地を決め、萱(かや)を刈り、玉串を立てて帰洛(きらく)(京都に帰ること)した。天皇は是吉を熊野へ遣わし、勅幣を捧げて祈り「梛(な)木(ぎ)の木」で「みくら」を調べ、御正体と補佐五伴の神をまつり、八重の注連(しめなわ)、榊で飾った船に神輿を移し、牟(む)呂(ろ)の津より大海原をお渡りになって、大宝元年(701)八月四日の夕べ、当町雨垂の浜に御着岸、翌五日に仮殿にお移し申した。この時、里人は初作りの粟飯を神前にお供えした。 新築なった御正殿に鎮座されたのは、九月九日である。以来今日に至るまで、神徳霊験あらたかな三社大明神と崇められている。 当神社は、災難除・子授け・安産縁結びの守り神として信仰が厚い。 御例祭日 大祭 四月第一土曜日・日曜日(三社まつり) 神事・地固めの舞・田遊び・神輿渡御・神子抱き 十三町山車引き回し 中祭 十月八日・九日 信心神楽奉納 境内社 諏訪神社 祭神大国主命(福の神)建御名方命(農耕神) 天神社 祭神菅原道真(文教の神) 熊野神社 祭神奥野左衛門是吉 大須賀町 (8)清水邸庭園 掛川市西大淵5298−2 清水家は江戸時代回船業を営み、藩の御用達を勤めるなどして「八十様にはおよびもないが、せめてなりたや殿様に」と俗謡(ぞくよう)(民間のはやりうた)にも歌われたほど繁栄をみました。 屋敷の南に広がる回遊式の庭園も、江戸中期に造られたものと言われています。 この庭は、湧水を巧みに取り入れて、水の豊かさ、清らかさに特徴がある名園です。 平成三年十二月二十日「静岡県みずべ百選」に選出されました。 入園の注意事項 一、庭園内は禁煙です。 一、管理人の指示に従って下さい。 開園時間 午前十時〜午后四時 (七・八月は四時三十分) 休園日 毎週木曜日(祝日の場合は翌日) 行 事 一月 初釜茶会 五月 若葉の園遊会 六月 ホタル鑑賞会 九月 お月見茶会 清水邸庭園運営委員会 電話(0537)48−6456 |