(注)井上正就(1577〜1628) 平九郎、・従五位下・主計頭。法名隆昌院日操忠源院。江戸時代後期の老中。遠江 横須賀藩主清秀の子。13才から徳川秀忠に仕え慶長19年(1614)「大阪冬の陣」に 歩頭(徒頭=江戸幕府や諸大名の徒士組の長・徒=徒歩)として従軍。寛永3年(162 6)前将軍秀忠の上洛に両番頭(御両番・初め大番と書院番、後書院番と小姓組番)を 兼ねて随行した。元和8年(1622)に加恩を受けて下野・武蔵・近江・遠江のうちで5万 二千石を領し、横須賀城に移った。寛永5年(1628)8月、西の丸で目付豊島刑部少輔 正次に殺害された。52才。墓所は遠江横須賀本源寺 (注)井上正就(まさなり)(1577〜1628)について 横須賀城の第十代城主。在城期間(元和八年〜寛永5年=1622〜28) 最初の殿中刃傷事件の犠牲者。豊島正次により殿中で殺害され、正次も翌日切腹した 。正次の遺恨は諸説あり、詳細は不明であるが、一般には正次が仲人として整えた、 正就の子正利の婚約を、正就が一方的に破談にしたからだといわれる。 この事件の当事者である、二人の処分については、正次の処分について、親戚の連 座を求める意見が多く出されたが、時の老中酒井忠勝が一人して反対し、豊島一族は ことごとく、処罰を免れた。 忠勝の意見は、小身者(しょうしんもの)(地位が低く、俸禄の少ない者)が大名に遺恨 を晴らそうとする場合、相手は屋敷内は当然、外出途上でも警固の士がいるから無理と いうもの、討ち果たせるのは無防備でいる殿中という場所でしかない。武士の一分を果 たすことが厳しく罰せられるのであれば、武士道はやがて廃れるであろう、というもので あった。 また、正就方については、正就は絶命したが、遺領は嗣子(しし)(後継ぎ)正 利が継いだが、正利は弟の正昭に七千石を分封し、自らは四万五千石を領有した。正 利は、横須賀城下の町(まち)割(わり)(町の地割。町を設けるために土地を仕切ること) 等、大整備を行い、民政にもよく尽力したといわれている。 正保二年(1645)正利は一万石を加増されて、常陸国(茨城県の大半)笠間五万五 千石に移封となり、また老中にも就任した。 ※四大殿中刃傷事件 @井上正就の事件(寛永五年=1628)の事件 A大老掘田正俊(貞享元年=1684)の事件 B高家吉良義央(元禄十四年=1701)の事件 C若年寄・田沼意(おき)知(とも)(天明四年=1784)の事件 「日本史人物 その後のはなし」 P36〜7 |