1 竜洋町 | |
国道150号線 〜沿線の史跡を訪ねて〜 1 竜洋町 (1)貴船神社 (2)袖浦公園 (3)掛塚灯台 (4)その他 2 浅羽町 (1)郷土資料館 (2)馬伏塚城跡 (3)了教寺 (4)龍冨山 松秀寺 3 大須賀町 (1)景江山撰要寺 (2)横須賀城址 (3)寂静山本源寺 (4)普門寺<BR> (5)龍眠寺<BR> (6)大淵山窓泉寺 (7)三熊野神社 4 大東町 (1) 高天神城跡 (2)松本亀次郎公園 (3)吉岡弥生記念館 (4)梅月山華厳院 5 浜岡町 (1)池宮神社 (2)その他 6 小笠町 (1)正林寺 (2)黒田家住宅と代官屋敷資料館 7 相良町 (1)相良町史料館 (2)竜門山大興寺 (3)大鐘家 (4)相良油田 (5)その他 8 吉田町 (1)小山城 (2)能満寺 |
子供連れなら、昆虫自然観察公園に立ち寄るのもよいだろう。又、平成16年発行の「竜洋のいまとむかし」(史跡地図)(48ヶ所を紹介簡単な説明文をつけている)の中の、、廻船問屋屋敷跡(中町)・民間飛行場「福長飛行場跡」(蟹町 遺構なし)・浜松にもゆかりのある長谷川貞雄頌徳碑(川袋 八雲神社境内)を徒歩で巡るのもよいかもしれない。 (1)貴船神社 磐田市掛塚926−1 рO538−66−2772 浜松駅より掛塚方面行「掛塚」下車徒歩1分 ◎御祭神 お神(たかおかみのかみ)(闇淤加美神=くらおかみのかみ) ◎御神徳 この御神は、水に関する一切のご支配を成されまして、農業・林業・漁業・醸造業・航海業の守護に高く広い御神徳を有しておられます。古来、日照り、長雨、冷え込み、暴風雨などによる凶作、その他天下に大寺ある時は、万民こぞってその難を避けようと祈願し、また、天竜川河口掛塚港鎮守として、廻船業者の崇敬の厚い神社です。 ◎御由緒 本神社の鎮座の年代は不詳であるが、室町時代文明年間(1469〜87)以前の創立と伝えられている。天正4年(1576)に社殿が再建されたが、明治16年(1883)の大火により焼失、その後、明治20年(1887)本殿、明治30年(1897)拝殿・幣殿を再建。さらに昭和10年(1935)幣殿の増築、昭和62年(1987)本殿の鞘殿を創建し現在に至っている。社領は慶安元年(1648)10月24日に徳川家光(1604〜51将軍在職1623〜51)公より朱印地8石の寄進を受けた。明治6年(1873)10月郷社に列せられ、明治40年(1907)1月神餞幣帛料供進社に指定され、昭和56年(1981)7月1日、県内神社等級別により五等級に指定された。 (注)○神餞…神に供える飲食物。稲・米・酒・鳥獣・魚介・蔬菜(そさい)・塩・水など。供物。みけ。 ○幣帛…神に奉献する物の総称。みてぐら。にきて。ぬさ。 ○弊…神前に供える布帛。ぬさ。みてぐら。 ○帛…きぬ。絹布。「布帛・竹帛」 ○供進…神に幣帛を供える事。 ◎御祭典 ◆貴船神社例祭 10月第三土曜日・日曜日 「掛塚屋台まつり」といわれている例祭で、宵祭り・本祭りが斎行されます。その際、境内に習合する町文化財の掛塚の屋台は全国的にしられ、信州の立川和四郎など名工の彫刻が見事です。県指定の無形文化財であるお囃子に合わせて渡御の御供をする光景は荘厳華麗・絢爛豪華な絵巻物です。 ◆祇園祭 6月14・15日 境内社の津島神社の例祭。掛塚内9町の若者により「献灯神事」が行われ、津島神社の前では「茅の輪の神事」(茅の輪くぐり)もおこなわれます。露店も沢山出て大変賑やかなお祭りです。 ◆お弁天様のお祭り 8月10日 境内社「厳島神社」の例祭。安芸の宮島厳島神社の御分霊神で、弁天様として昔から崇められており、特に女の人の崇敬が厚い神社です。 ◆七五三祝祭 11月15日に近い日曜日 三歳と九歳の子供たちが自治会の人達に付き添われて、男の子も女の子もみんな揃って、氏神様に無病息災成長祈願祭を斎行します。町外からも崇敬者の方々が多く御祈願に参られます。最近は五歳・七歳の子供たちも御祈願に参られます。 ◆除夜祭・元旦祭 12月31日〜1月1日 大晦日の夕方から大祓式、夜11時半から除夜祭を斎行。午前0時より太鼓の合図と共に鳥居の前で待っていられた参拝者が我先にと元旦祭に参拝され、非常な賑わいになります。 (注)貴船神社の西洋型帆船 (注)天竜川舟運と掛塚湊 (注)海の東海道 「貴船神社のホームページ」http://www.kaketsuka.jp/jinjya/kibune/ 「静岡県神社庁のホームページ」 www.shizuoka-jinjacho.or.jp - (2)袖浦公園 磐田市飛平松25−1 国道150号線より南へ400m @明野陸軍飛行学校天竜分教場跡 戦争が拡大するにつれて、陸軍は多数のパイロットが必要となり、その養成のための飛行場として、1939年(昭和14)に工事が始められた。約200ヘクタールの耕地や池などが埋め立てられ、4つの格納庫と、東西約1,600mの滑走路2本、射撃場、兵舎が建設された。練習機(2人乗り)や九六式戦闘機、一式戦(隼)などの飛行機を使い、実戦に参加できる、訓練が行われた。この地で教 育を受けた多数の方々の中には、太平洋戦争で尊い生命をおとされた方も多い。戦争末期には、アメリカ空軍の攻撃を受け、近所の家も大きな被害にあった、戦後開拓された。 昭和57年11月20日 竜洋町教育委員会 (注)明野陸軍飛行学校 (注)福長飛行場跡 AF86戦闘機 F86戦闘機は、昭和28年頃米国で昼間戦闘機として開発されました。我が国では昭和31年から昭和36年までの間、三菱重工業で約300機生産され、以来26年余「旭光」の愛称で、日本の空の防衛の主役として活躍しました。東京オリンピックや大阪万国博覧会会場の上空で見事なページェントを披露した初代のブルーインパルスは本機と同型機です。この749号機は、昭和32年に生産され全国の第一戦基地で活躍した後、昭和55年から浜松基地において展示され、訪れる見学者の目を楽しませました。この度、明野陸軍飛行学校天竜分教場跡地に、袖浦公園が完成した事を記念して、戦争の悲惨さと平和の尊さを永遠に後代に伝えることと、航空科学の普及のため、浜松基地から特別に提供していただき、展示することになりました。 平成5年6月 (3)掛塚灯台 磐田市駒場 JR豊田町駅から車で約15分 掛塚灯台は、明治十三年(1880)に、地元篤志家(慈善家)荒井信敬(1825−1911)氏によって私設灯台として設置されました。その後、明治三十年(1897)官設灯台として完成されています。以来今日までその光は消えることなく、航行船舶の安全のために重要な役割を果たしています。 施設の概要 位 置 北緯 三十四度三十八分四十秒 東経 百三十七度四十八分二十秒 塗色及び構造 白色・円形・上部鉄造・下部コンクリート造 灯 質 明暗白光・明三秒暗三秒 光 度 一万五千カンデラ 光 達 距 離 十五海里(約二十七・五キロメートル) 高 さ 地上〜頂部 十六・一三メートル 水面〜灯火 二十五メートル 管理事務所 静岡航路標識事務所 電話 064−275−0451 この灯台が、一世紀以上の歴史の中で、数多くの船人の命と貴重な財貨を人知れず救ってきたであろうことを思うとき、これからも毎夜美しい光を沖行く船に投げかけるよう祈念するものであります。 社団法人 燈 光 会 この周知板はモーターボート競走公益資金による財団法人日本船舶振興会の補助金を受けて設置したものです。 ※掛塚灯台の移設 掛塚灯台は平成14年3月12日に、竜洋海洋公園オートキャンプ場から見える位置に移設した。 (注)旧掛塚灯台と新掛塚灯台 (注)竜洋しおさい風力発電所 (4)その他(参考) @蓮覚寺山門 磐田市掛塚中島 瑞嶽山蓮覚寺は、平重盛(1138〜79)が安元元年(1175)遠州の三連寺の一つとし て創建したと伝えられている。山門の様式は「薬医門」で、天保13年(1842)の建立。 A廻船問屋屋敷跡 磐田市掛塚中町 掛塚湊が栄えた時代、掛塚は小江戸と称された。文化年間(1804〜17)には18軒。 明治25年(1892)には36軒の廻船問屋が存在した。中宿川口屋(林文吉)は、回船業 者の中でも大手に属し、当時屋敷は3,000坪(約9,917u)もあったといわれている。 現在、屋敷の周りを「伊豆石」の塀が囲み、当時の面影を残している。 B平野又十郎の生家跡 磐田市掛塚中町 嘉永6年(1853)中宿川口屋(林文吉)の6男として生まれた。明治10年(1877)貴 布祢村(旧浜北市・現浜松市)の平野家へ養子に入り、村人に貯蓄の必要性を説いてま わり、貯蓄組合を起こした。昭和3年「舞阪西遠商社」を起こし、現在の静岡銀行へと発展 した。昭和3年(1928)76才で没した。 C掛塚港廻船の碑 貴布祢神社境内 大正13年(1924)9月、掛塚商船組合が、貴船神社境内に建てた碑。掛塚湊の隆盛の時代を忍ぶ事が出来る。 D長谷川貞雄(1845〜1905)頌徳碑 磐田市掛塚川袋 弘化2年(1845)川袋に生まれる。成人して国学者平田篤胤(1776〜1843)・有賀 豊秋(1790〜1882)の門人となった。明治維新時には、遠州報国隊の幹部として西郷 隆盛(1827〜77)等に合流して江戸に入った。戊辰戦争(1868〜9)に参加して功をた て、以後東京に留まり海軍省に転じ、海軍主計総監になった。退役後は、貴族院議員に 勅撰され中央政界でも活躍した。晩年は濱松に移り、数々の要職を務めたが、明治38年 (1905)没。碑は八雲神社境内にある。 ※浜松市の県居神社社殿うらに、長谷川貞雄の銅像がたっている。 E荒井信敬翁(1825〜1911)之寿碑 磐田市駒場 旧幕臣であり、幕府崩壊後は、駒場地区で開墾に従事した。難破船に心を痛め、私財を 投じて「改心灯台」を建設した。碑は駒場海岸入口にある。 ★「竜洋のいまとむかし」 〜史跡地図(平成16年3月改訂〜 48ヶ所中より適当に選択した。 |