5 浜岡町 | |
国道150号線 〜沿線の史跡を訪ねて〜 1 竜洋町 (1)貴船神社 (2)袖浦公園 (3)掛塚灯台 (4)その他 2 浅羽町 (1)郷土資料館 (2)馬伏塚城跡 (3)了教寺 (4)龍冨山 松秀寺 3 大須賀町 (1)景江山撰要寺 (2)横須賀城址 (3)寂静山本源寺 (4)普門寺 (5)龍眠寺 (6)大淵山窓泉寺 (7)三熊野神社 4 大東町 (1)高天神城跡 (2)松本亀次郎公園 (3)吉岡弥生記念館 (4)梅月山華厳院 5 浜岡町 (1)池宮神社 (2)その他 6 小笠町 (1)正林寺 (2)黒田家住宅と代官屋敷史料館 7 相良町 (1)相良町史料館 (2)竜門山大興寺 (3)大鐘家 (4)相良油田 (5)その他 8 吉田町 (1)小山城 (2)能満寺 |
池宮神社見学後は、行動150号線南側にある「中電浜岡原子力発電所」を見学し、次の見学地へ。先に相良町を見学し小笠町を経て帰る方法もある。
(1)池宮神社 御前崎市佐倉5162 @池宮神社 (現地説明板) 〈御神祭〉瀬織津比当ス・事代主命)・建御名方命 〈御神徳〉瀬織津比当スは大祓詞に現れる代表的な清めの祓いの神で諸々の罪穢を祓い、開運厄徐の御神徳極めて高い。事代主命・建御名方命は共に大国主命の御子神で、事代主命は通称エビス様と称せられ商売繁昌、福の神として、建御名方命は武勇の神・農・耕・水の守護神として崇められている。 〈祭 日〉例祭=春・秋の彼岸の中日納櫃祭=秋の彼岸の中日 〈御由来〉創祀は敏達天皇十三年六月(584)に瀬織津比当スが御出現。社殿の造営が成された。後、栄枯盛衰が激しく平安時代初めには衰退し、社殿は大破した。しかし平安時代中期一条天皇の長保3年(1001)社家の遠祖源朝臣信栄が社勢を再興。室町時代にはいると駿河・遠江を領有する今川氏の崇敬を受けたが、戦国末期に武田・徳川両氏の天神城争奪の地となり、社殿はじめ神宝・旧記・古文書の大部分を焼失。江戸時代に神官信盛が再び興し徳川家の崇敬を受け、明治維新に至るまで地頭の祈願所となっていた。享保十六年(1731)には正一位の神階宣示を受け、本殿は宝暦十年(1760)拝殿は元文4年(1739)に、時の大宮司従四位下佐倉治部大輔源朝臣信幸が造営し、その名を池宮天王社とも称され今日に至る。 A池宮神社本殿 平成二年五月十七日町指定有形文化財 本殿は、一間社母屋造平入、流れ向拝付、柿葺(こけらぶき)本柱、向拝柱几帳面取角柱、総朱塗、木階五級の建築であるが、鬼斗、かえる股等に江戸時代中期の意匠工法が散見され、小規模ではあるが注目すべき建物である 浜岡町教育委員会 B桜ヶ池とおひつ納め 現地説明板 桜ヶ池は、約2万年前に出来た砂丘堰止湖です。県立自然公園の一環にあり、静岡県の自然百選の森に選ばれた神秘な原生林に囲まれた県指定名勝地です。 桜ヶ池のほとりにある池宮神社のお祭りに、五穀豊穣を祈るため、秋の彼岸の中日に行われる「おひつ納め」(県指定無形民俗文化財)がある。平安末期比叡山の名僧皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)が衆生救済のため龍蛇と化し入定(入滅・聖者が死去すること)され、池の主神となられた。この霊を高弟の浄土宗開祖法然上人(1133〜1212)が供養のために桧づくりのおひつに赤飯をつめ、一つは池宮神社に、一つは師の皇円阿闍梨にと、池心に沈めたことから始まり、以来今日まで続いている遠州七不思議の一つにあげられている。 C「おひつ納め」と「皇円阿闍梨」 現地説明板 皇円阿闍梨は肥後國(熊本県)に生まれ、幼くして比叡山で学問・仏法を修業され後に日本の歴史書「扶桑略記」三十巻を記した。皇円上人は悟りの境地を得るため天台の「止観」といおう方法に基づき、様々な難行・苦行を重ねられた。しかしながら仏法の極め難きを知り、五十六億七千万年後に出現すると伝えられる弥勒菩薩に会うことを発願された。そして、その弥勒菩薩の教えにより人々を悩みから救うことができると考え、嘉応元年(1169)6月13日(96才の時)身を龍と化し、この桜ヶ池に入定された。おひつ納めは、後に皇円上人の高弟、法然上人(浄土宗の開祖)が桜ヶ池を訪れ、師である皇円龍神の安泰と五穀豊穣を祈り、赤飯をつめたおひつを神社に一箇、桜ヶ池に一箇納めたことに由来する。以後、親鸞聖人(浄土真宗の開祖)、熊谷蓮生坊直実(1141〜1208)が継承し、以来八百数十年続いている奇祭である。また、この桜ヶ池は信州(長野県)諏訪湖と底が続いているとも言い伝えれている 。それはすべての命をはぐくむ水の神様を共に崇め感謝すという、古代人から現在に至るまで心の底が通じていることを象徴している。 御参拝の皆様も、慈悲深い皇円上人、そして大自然の恵みに合掌して感謝いたしましょう (2)その他(参考) @比木賀茂神社社叢 御前崎市比木字清水2815 ◆地形 当社叢の最高点は海抜56,6m、最低点は神社鳥居前海抜24,9mで、比は31,6m ◆比企賀茂神社の社叢(神社の森)は、賀茂神社の鎮守の森として長期にわたり良好に保存されて成立した、典型的なスダジイをはじめヤマモモ・ホルトノキ・タブノキなどの大木が茂る。昔のこの付近の林相を示す代表的な林である。 ◆比企賀茂神社に棲む主な動植物 ◎植物 @シダ類…フモトシダ・イワガネソウ・ベニシダ他 A高木・亜高木…スダジイ・クロガネモチ・クスノキ他 B低木…カクレミノ・センリョウ・ヤマビワ他 ◎動物 @タヌキ・アカネズミ・オオゴキブリ・アオゲラ ヒメハルゼミ。(昔から「姫春蝉」は声はするが姿が見えないので「お宮に棲む不思議な蝉」「幻の蝉」「神様のお使い」などと地元の人々から呼ばれていた。)→「姫春の里」 ※千葉県茂原市の「ひめはるの里」…「姫春蝉」の発生地。 A史跡「ドンブチ」公園 御前崎市池新田95−4 @ドンブチとは 水田の一角に約2m四方の木枠を、深さ3mまで組みその底に竹筒を打ち込んだ井戸のことで、その竹筒から地下水が湧きあがり、溜まった水を灌漑用水に利用していた。ドンブチの始まりは、慶長年間(1596−1615)の新野池の開発に由来すると言われ、近郷の村人が開発した朝比奈割、新野割等の字名の中に多く点在していた。 A染物井戸としての役割 ドンブチは昔から染物井戸として利用されてきた。イマメ(ウバメガシ)の若芽を使い布を染めた後、このドンブチの水で洗うときれいに発色して定着すると言われてきた。 ドンブチの水は、鉄分「ソブ」を多く含んでいるため、水面は赤茶色に濁っている。この「ソブ」が染物に適していることを昔の人は知っていたと思われる。 。 |