4 大東町

国道150号線
〜沿線の史跡を訪ねて〜
1 竜洋町
(1)貴船神社
(2)袖浦公園
(3)掛塚灯台
(4)その他

2 浅羽町
(1)郷土資料館
(2)馬伏塚城跡
(3)了教寺
(4)龍冨山 松秀寺

3 大須賀町
(1)景江山撰要寺
(2)横須賀城
(3)寂静山本源寺
(4)普門寺
(5)龍眠;寺
(6)大淵山窓泉寺
(7)三熊野神社

4 大東町
(1)高天神城跡
(2)松本亀次郎公園
(3)吉岡弥生記念館
(4)吉岡弥生生誕地
(5)梅月山華厳院

5 浜岡町
(1)池宮神社
(2)その他

6 小笠町
(1)正林寺
(2)黒田家住宅と代官屋敷資料館

7 相良町
(1)相良町史料館
(2)竜門山大興寺
(3)大鐘家
(4)相良油田
(5)その他

8 吉田町
(1)小山城
(2)能満寺

 高天神城跡はお弁当持ちで出かけ、ゆっくりと遊びたい。ここだけで1日かけてもハイキングと思えば楽しいものだ。山登りに疲れたら帰りは「大東温泉シートピア」で温泉につかり、物産館で地元農家の農産物を買おう。

(1)高天神城跡  掛川市土方
 武田・徳川両氏の激しい攻防戦で知られる高天神城は、大東町土方に位置し、小笠山山塊の東南に延びた尾根の末端部、標高132mの鶴翁山を中心に築城された「山城」。駿河・遠江二カ国の守護、今川範国(?―1384)の二男、今川了俊(1326−1414頃)によって応永23年(1416)築城されたというが、応永23年は、了俊が死去する直前で、しかも90歳を越えていたことになり、誤りであるとする説もある。
 城は尾根を巧みに使っており、東峰に本曲輪(本丸)を配置し、西峰に二の曲輪(西の丸)をというように、まるで二つの城から成り立っているような「一城別郭」の構えをしている。
 城のある地勢からも難攻不落の名城といわれたが「高天神を制するものは遠州を制する」と、元亀二年(1571)から約10年、三次にわたる武田・徳川の攻防戦で天正九年(1581)落城した。以降、城は再建されることなく現在に至っている。昭和50年(1975)国の史跡に指定された他、城跡一帯が「御前崎遠州灘県立自然公園」となっている。
    「だいとう小事典」大東町商工観光課刊  平成8年 P41−2

 (注)今川範国と今川了俊

※高天神城跡見所
@搦手門


 城の裏門にあたり、城南から出て来る者を搦め捕る意味からこの名がある。元亀(1570〜73)から天正二年(1574)にかけて、渡辺金太夫が大将として城兵二百十余騎を率いて守護したところである。
※搦手
 城の裏方をいい、搦手門はその中心にあたる。大手が「追って」に語源があるとおり、搦手は「からめ取る」に語源がある。地勢に関係ない場合、大手は南方、搦手は北方に構えてある。

A三日月井戸








 天正二年(1574)七月より籠城した武田勢は飲料水に恵まれるようにと、水乞いの祈願をこめて井戸を造った。今もごく僅かながらも岸壁からしみ出る垂れ水が絶えることがない。

B二の丸堂の尾曲(おぐる)輪(わ)址
 天正二年五月、武田勝頼(1546〜82)来攻、包囲、6月28日猛撃、二の丸主将本間八郎三郎氏清、部下300騎を率いて此所の物見櫓に上り、城兵を指揮した。同日卯の刻(朝6時)武田方穴山(あなやま)梅(ばい)雪(せつ)(1541〜82)の部下西島七郎右衛門、朝日に輝く氏清の武装を狙い、鉄砲を撃った。氏清、首の近くを撃たれ、本丸に運ばれ介抱を受けるも10時、行年28歳を以て絶命した。弟の丸尾修理亮義清、兄に代わり櫓にて指揮 中、同日午の刻(12時)狙撃により胸部を撃たれ即死した。行年26歳であった。墓碑は後裔本間惣兵衛が元文二年(1737)に建てたものである。
    
C天神社
     由緒
 祭神 正一位 尾白稲荷大神
 今から一千六百余年前、この天神に地の神、護国長寿の神として御降臨。その後、当山での修験者、藤原仙翁を下僕として付近一帯を守って来られました。戦乱の世、自己の姿(尻尾の白い狐)を見せたがため、賞金を付けてのお触れが出され、ある夜、この井戸を飛び越えようとした所を三の丸の大将、小笠原與左衛門(強弓の師)に射止められました。與左衛門は報奨を得、姓を「尾白」と改めてきたものの、以後天神は「魔の山」として恐れられるようになりました。
 神通力を奪われて四百有余年間、このたび天神社の祭神菅原道真公また藤原仙翁・大河内政局・四坊僧のお力添えを得て、目出度く此所に尾白稲荷大神として醒誕、関係各位の同意により祭祀されることに鳴りました。大変な神通力がある故、商売繁昌・縁談・難病諸病は勿論の事、真心をもっての合掌には霊験あらたかです。
 参拝は「結ぶ、結ぶ、結ぶ」と三度口の中で唱え願い事をして御礼拝下さい。
昭和六十二年十二月十六日
  祭日は 毎月の六日、十六日、二十六日
  例大祭 十二月十六日

D切割(山や丘の一部を切り崩して開いた道路)
 尾根伝いに攻め寄せる敵兵を防ぐために作ったもの。






E甚五郎抜け道
 天正九年(1581)三月落城の時、二十三日早朝、軍監横田甚五郎尹松は本護国の武田勝頼に落城の模様を報告するため、馬を馳せて、是より西方約一千米の尾根続きの険路を辿って脱出し、信州を経て甲州へと抜け去った。
     この場所を別名「犬戻り猿戻り」ともいう。
                   大東町教育委員会
※落城を背に城脱出劇    「だいとう小事典」  P41
 天神城の軍監横田甚五郎尹松は、落城のとき徳川方の旗を拾って、まんまと徳川方の目をごまかし、城の脱出に成功した。このとき、尹(ただ)松(まつ)は西の丸(西峯)西側、犬戻峡、猿戻りと呼ばれた隘路を通って逃げたことから以後、そこは「甚五郎抜け道」と呼ばれるようになった。脱出に成功した尹松は甲府に戻り、勝頼のもとにいたが、翌年武田氏が滅亡したので徳川家康についた。

F大河内幽閉の石風呂(石窟)












 天正二年(1574)六月武田勝頼雷光包囲、28日激戦となった。城主小笠原長忠遂に叶わず、武田方に降り城兵東西に離散退去したが、軍監大河内源三郎政局独り勝頼の命に服さず、勝頼怒って政局を幽閉した。武田方城盤横田尹松政局の義に感じ、密に厚くもてなした。天正九年(1581)三月、徳川家康城奪還23日入城し、城南検視野際牢内の政局を救出した。足掛け八ケ年、節を全うしたが歩行困難であった。家康過分の恩賞を与え労をねぎらい、津島の温泉にて療養せしめた。政局無為にして在牢是武士道の穢れと思い剃髪して皆空と称した。後年家康に召されて1584年の長久手の戦い(小牧・長久手の戦い)で討死した。

G本丸址
 元亀2年(1571)3月武田信玄来攻に備えて、城主小笠原長忠二千騎を以て籠城。本丸には軍監大河内政局武者奉公渥美勝吉以下五百騎と遊軍百七十騎が詰めた。
 天正2年(1574)5月武田勝頼当城包囲猛攻6月28日激戦、7月2日休戦9日開城、城主長忠武田方に降り城兵東西に分散し退去、武田方武将横田尹松城盤として軍兵一千騎を率いて入城した。天正7年(1579)8月城兵交代、武田方猛将岡部丹波守真幸(元信)城代として一千騎を率いて入城した。
 天正九年(1581)3月徳川家康来攻包囲10ヶ月、城中飢に瀕し22日夜半大将岡部真幸(元信)軍監江馬直盛以下残兵八百、二手に分かれて城外に総突し激闘全滅した。23日家康入城検視、武者奉行孕石元泰誅(ちゅう)せられた。

 (注)岡部元信

(参考)
         天神をめぐる武田・徳川の攻防
(1)第一次・元亀2年(1571)の戦い
 今川氏の滅亡後、天神城主となったのは、かつての今川方の重臣で徳川に寝返ったばかりの、天神城主小笠原氏興・長忠父子であった。武田氏信玄は2万余の大軍を率いて天神の南東にあたる塩買坂(小笠町川上)に陣を張り、天神城攻めに取り組んだが、本格的に攻めることなく、獅子ケ鼻と国安川の二ヶ所で小競り合いした程度で、甲斐に引き上げ、その後病死した。
(2)天正2年(1574)
 武田勝頼軍2万5000の兵を率いて、籠城兵2000の小笠原長忠父子の立て籠もる天神城を包囲。長忠はよく防戦した。しかし、1ヶ月経過しても家康の援軍は到着せず苦戦した。長忠は勝頼の「駿河国富士郡で1万貫の所領を与える」という誘いに、城を明け渡した。勝頼は城兵の命を保障したばかりでなく、城主・長忠と共に武田方につくもよし、そのまま家康方に残るもよし、とその後の進路は各人の判断に任せた。長忠は富士郡の一部を与えられ、渡辺金太夫たち武田方へ、渥美五郎らは徳川方に残り6月17日開城した。
(3)第三次・天正9年(1581)の戦い
家康は天神が武田方のものになったため、天神城に対する押さえの城を築く必要にせまれ馬伏塚城・横須賀城を築き天神奪還の基地とした。さらに「天神六砦」(小笠山・能ケ坂・火ケ峰・獅子ケ鼻・中村・三井山)を築いた。天神城には小笠原氏に代わって、横田甚五郎尹松が城番(城代)として入ったが、天正7年(1579)に岡部丹波守長教(岡部丹波守真幸と同じらし)と交代し、横田が軍監となった。
 第二次天神城の戦いの翌年長篠の戦いがあり、勝頼は大敗し、家康は北遠地方の城を次々と攻略し、遠江における武田の城は天神城と小山城のみとなった。
 天神城の岡部長教ら籠城衆は、勝頼に応援の依頼をしても何の音沙汰もないため、「降伏したい」と家康に矢文を放って申し出たが許されず、しかた名君城主岡部長教は天正9年(1581)3月22日(1581)血路を開くため、城内から全員が討って出て玉砕した。死者730名が堀に埋まったという。家康は戦い終わって城内を検視し城郭を焼き払って浜松城に帰った。翌年勝頼自刃。武田氏滅亡。
      歴史と人情の街 「だいとう小事典」より

(2)松本亀次郎記念公園  掛川市上土方嶺向
 亀次郎の生家跡に昭和60年(1985)に完成。晩年の同氏の胸像入り記念碑に、井上靖(1907−91)が顕彰文を揮毫。中国人留学生の学習の場として東京神田に東亜高等予備校を創立し、2万人余の留学生を教育。中には魯迅(ろじん)(1881−1936)・周恩来(1898−1976)もいた。
@松本亀次郎先生顕彰の碑
 本亀次郎先生は、中国留学生教育にとりくみ、日中教育の架け橋に生涯を捧げました 日中は、時(とき)恰(あたか)も辛亥(しんがい)革命(かくめい)(1911)から、日中戦争に亘る変革期で、先生と出会った多くの人々が、新生中国の原動力となって活躍しました。留学生に捧げた情熱は、中国発展の力となり、日中発展の力となり日中友好の礎ともなったのです。ここに顕彰碑を建て、その功績を讃えるものです。
A松本亀次郎略年譜
 慶応 二年  二月十八日静岡県小笠郡大東町土方嶺向に生まれる。
 明治一七年  静岡師範学校二年前期に入学。
   二一年  静岡県尋常師範学校卒業・静岡高等小学校訓導。
   三〇年  文部省中等教員検定試験合格・静岡県尋常師範学校助教授。
   三六年  佐賀師範を退職上京、宏文学院で日本語教授となり、魯迅(ろじん)(1881         〜1936)などの留学生を教える。
    三七年  「言文対照・漢訳日本文典」刊行。中国で大好評。
    四一年  清国京師法政学堂教習に招かれ渡清。(大正元年帰国)
 大正 三年  「日華同人共立・東亜高等予備学校」を創立。
         「漢訳日本語会話教科書」を刊行。
     六年  周恩来(1898〜1976)が入学。
 昭和 五年  外務・文部両省の補助により中国教育事情視察旅行。
    一〇年  東亜高等予備学校「東亜学校」と改称。
    一九年  夏疎開 六十年振りに故郷へ。
    二〇年  大東町の生家で永眠。七九歳七ヶ月。

(3)吉岡弥生記念舘   掛川市下土方








@・弥生の生家
 弥生が生まれ育った家を移築しました。最も古い部分は、江戸時代末期に建てられたようです。その後、増改築が繰り返されましたが、調和のとれた完成度の高い姿を見せています。母屋の裏に位置する蔵は、生家の移築時に現存していたものを参考に建築しています。


A・長屋門
 明治末期まで存在していた長屋門を復元しました。全体の形と基本構造は当時の写真を参考に、また細部については、近隣に現存する同時代の長屋門を調査して造りました。表面は漆喰(しっくい)と杉板で仕上げましたが、当時の長屋門は杉板が黒塗りだったようです



(4)吉岡弥生の生家    「現地説明板」
女医育ての親―東京女子医科大学創立者
   吉岡弥生生誕の地
    (明治四年〜昭和三十四年)
     掛川市上土方嶺向
 吉岡弥生(1871〜1959)は、明治四年三月十日、鷲山家に父・養斎、母みせの子として誕生しました。幼いときから誠意をこめて村人を診察する父の姿に、大きな感化を受けて育ち、明治九年(1876)嶺向学校(明治十六年=1883愛日舘と改称、現土方小学校)に入学し、明治十七年卒業しました。
明治十七年より長寿庵にて二年間裁縫を修業し、働く喜びを感じると共に、世のため・人のためになる生き方を真剣に考えました。そのためには「医者になることだ」と決心し、実力を身につけるよう励む一方、反対する父を説得し、東京へ出て勉学することを許されました。
 明治二十二年(1889)四月八日医学専門学校済生学舎に入学、三年間一心不乱・勉学一筋の生活を過ごし、明治二十三年四月医術開業前期試験に、明治二十五(1892)年十月医術開業後期試験に合格し、日本で二十七人目の女医になりました。
 明治二十八年(1895)二十五才の時ドイツ語の学習で知り合い、女医育成のよき協力者となった吉岡荒太郎(二十八才)と結婚しました。
 明治三十年代、男尊女卑の強い風潮の中、布陣の地位は低く、女医亡国論まで唱えられ、女子の医学への道が閉ざされようとしました。日本に女医の灯を絶やしてはならないと、女医の学校創立を決意、明治三十三年(1900)十二月東京女医学校(現東京女子医科大学)を開校し、女医の育成に婦人の社会的地位の向上をはかりました。
わが郷土にうまれた女医吉岡弥生の偉業を讃え、ここに顕彰いたします。          (吉岡弥生伝より)
 平成四年               大東町教育委員会

(5)華厳院  大東町神土方(日向谷)0537−74−2382
 曹洞宗梅月山華厳院が正式名称。今川の家臣、高天神城の6代目城代、浅羽弥九郎忠幸が、長享元年(1487)日向ケ谷(華厳院の現在地)に創建した寺。 浅羽忠幸は明応四年(1495)病死し、菩提寺である華厳院に墓碑・寄進状がある。また、明治の元勲土方久元の碑がある。