(注)「掛塚湊」(中世・近世の港湾) 天竜川河口の港で、室町時代(1392〜1573)には。天竜川は3つに流れていたため、川の中州に港が造られていた。 伊勢大湊から伊良湖岬を通り、掛塚湊・小川湊・江尻湊などを経て、伊豆半島を回る航路が開かれており、その一つの港として、又天竜が舟運の港としても重視された。 室町時代末期には「遠州第一の名港」といわれたが遠浅であったという。永禄12年(1569)掛塚城に籠城した今川氏真(1538〜1614)が徳川家康(1542〜1616)の攻撃を支えきれず舟で駿河と伊豆の国境に近い戸倉に逃れたが、その時船出したのが「掛塚湊」であった。 江戸時代廻船業者の活躍がみられ、特にマツ・ツガ・ヒノキなど天竜の木材、御用米を江戸へ運ぶ重要な港町として繁栄した。明治22年(1889)東海道線開通により、物資輸送は鉄道に移り、中世以来栄えた掛塚湊も事実上その氏名を終えた。 「静岡大百科事典」P152 ◆「天竜川舟運」 慶長12年(1607)角倉了以(1554〜1614)が開いた水運。天竜川河口掛塚(竜洋町)から鹿島・船明(ふなぎら=旧天竜市)・中部(なかべ=旧佐久間町)等を経て、信州飯田、市田を経て諏訪湖に達するもの。 「静岡大百科事典」P545 ◇角倉了以(1554〜1614) 江戸初期の豪商・土木家。名は光好。洛西嵯峨に住む。算数・地理学を学び、慶長9年(1604)頃より、豊臣秀吉より朱印状を得て、アンナン(安南)に角倉船(すみのくらぶね)と称する400人乗りの「朱印船」を派遣して貿易を営む。嵯峨の大堰川(おおいがわ)・富士川・天竜川の水路を開き、また京都に高瀬川を開削した。 |