4浜北駅〜遠州小林駅
遠州鉄道西鹿島線
〜沿線の史跡を訪ねて〜

1 新浜松駅〜八幡駅
 (1)新浜松駅
 (2)第一通り駅
 (3)遠州病院前駅
 (4)八幡駅

2 助信駅〜遠州上島駅
 (1)助信駅
 (2)遠州上島駅
 
3 さぎの宮駅〜遠州小松駅
 (1)さぎのみや駅
 (2)遠州西ヶ崎駅
 (3)遠州小松駅

4 浜北駅〜小林駅
 (1)浜北駅
 (2)北浜中学校前駅
 (3)遠州小林駅

5 遠州芝本駅〜西鹿島駅
 (1)遠州芝本駅
 (2)遠州岩水寺駅
 (3)西鹿島駅

※参考にした本等

    
  この区間の路線距離は3,1km。浜北駅下車タクシーで万葉の森公園と不動寺に向かう。タクシーは万葉の森公園で下車し、裏口より不動寺に入る事が出来るので、タクシーは不動寺下で待たせて参道の石段を下りる方が楽かもしれない。(当然その逆も考えられる)。再び浜北駅にもどり線路沿いに北浜中学校前までは徒歩で1km余、地蔵堂・於呂神社・天保堤を見学し、北浜中学校前から電車で小林駅下車、タクシー12分で「花咲庄」、タクシーは一旦帰し充分見学時間をとり、見学終了後タクシーを呼び、北浜の大カヤの木・彦助堤等を見て遠州芝本駅に向かう。

(1)浜北駅
@万葉の森公園 浜松市平口505―1 
電話053−586−8700
開園時間 9;00〜17;00
休園日 月曜日
   平成4年(1982)開園。園内には約2,3hの敷地に300余種5000本の万葉植物を中心に、浜北ゆかりの万葉歌・万葉びとの暮らしと文化に関する資料を展示した「万葉資料館」をはじめ奈良時代の食事を再現した万葉食が体験出来る「万葉亭」、万葉草木染め原色押し花が体験できる「伎部の工房」、古代貴族が曲水を催した曲水池と法隆寺の夢殿を模して造られた「曲水亭」が整備されている。平成16年(2004)には、「萩のトンネル」「万葉四季の庭園」も整備され、万葉文学・万葉文化を体験的に親しむ事が出来る。毎年10月の第二土・日曜日には「浜北万葉まつり」(曲水の宴)が開催される。なお園内には万葉歌碑が三基あり鑑賞することができる。










 ◎万葉の森公園内の「万葉歌碑」
  ☆「わが妻は 甚(いた)く恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて よに忘られず」
    巻20 、4322番歌 作者 若(わか)倭部(やまとべ) 身(み)麻呂(まろ)
 (訳)吾が妻はひどく恋しがっているにちがいない。飲む水に姿が見えて決    して忘れられない。
 



☆「伎部人の まだら衾(ぶすま)に 綿さはだ
     入りなましもの 妹が小床(をどこ)に」
    巻14、3354番歌 作者不詳
  (訳)「きへ」の人の斑模様の寝具に綿がたくさん入っているように、私も入りたかったのに、彼女の寝床に」 



☆「磯の上に生ふる 馬酔木を 手折らめど
       見すべき君が ありと言はなくに」
    巻2、166     作者 大来皇女
  (訳)馬酔木の花がきれいに咲いているので、皇子に見せてあげようと思ったのに、あなたはもういないんですね」



※その他浜北地内の「万葉歌碑」
 ☆「わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に
     影さへ見えて  世に忘られず」  
      宮口の八幡神社(旧若倭神社)敷地内 (万葉公園の歌碑参照)
 ☆「麁(あら)玉(たま)の 寸(き)戸(へ)が竹垣(たかがき) 編目ゆも
     妹し見えなば  あれ恋ひめやも」   巻11・2530    
     宮口 麁玉公民館敷地内
 (訳)麁玉の寸(き)戸(へ)の家のあの竹垣の編目(ほんのわずかな隙間)からでもいとしいあの娘の姿が見えさえしたら、なんでわたしがこんなになやみましょうか。  
 ☆「麁玉の 寸戸の林に 汝(な)を立てて
    行きかつましじ  寝(い)を先立(さきだ)たぬ」   巻14・3353         貴布祢 浜北文化センター敷地内
 (訳)麁玉の寸戸の林にお前を立たせて、今夜はいけそうもありません。先に寝てください」  ※まず一緒に寝よう。「万葉集(3)」小学館
☆「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに
      優れる宝 子にしかめやも」   巻5・803     
  西御薗 旧浜北市役所玄関前
 (訳)銀や金や玉は価値ある宝物であるが、それよりも私たちの子供はもっともっと大切なものである。
※参照「静岡県 万葉歌碑を歩く」 静岡新聞社 

A瀑布山不動寺 浜松市平口5052
電話053−586―3205
JR浜松駅から内野台線浜北西高行き「平口不動前」下車、または遠州鉄道浜北駅から車で6分

 ◎由緒…通称「平口のお不動さん」として広く世に親しまれており、.その開創は寺伝によれば、奈良時代行基が諸国巡錫の折、この地に留まり疫病の流行を知り、夢枕に不動明王が出現、その不動明王を刻み本尊として、安置したのが始まりといわれる。江戸時代初期の延宝8年(1680)隠元禅師の弟子独湛、更に独湛の弟子亘虚道経和尚が黄檗宗寺院として再興し以来法灯連綿として今日に至っている。

 ◎河岸段丘と不動寺(現地案内板)
  三方原台地のすぐ下の平坦地を「富岡段丘面」その下が「姥ヶ谷段丘面」最下段を「浜北段丘面」という。この段丘は天竜川の流れに沿って発達した「階段状」の地形で、旧天竜市を扇頂部とする洪積時代の扇状地が大きく三回にわたって隆起したため、三方原台地東縁に三段にわたって旧氾濫源が段丘面を形成した。
 ここ「不動寺」のある段丘崖は、二段目の「姥ヶ谷段丘」と三段目の「浜北段丘」の境にある。この見事な典型的な「河岸段丘」は全国的にもよく知られている。「不動の滝」を初めとして、この段丘崖には清水も多く縄文・弥生の集落も発達し、段丘面には聖なる地として、古墳も多く築造されてきた。そのような悠久の歴史をもつ地に「瀑布山不動寺」が建立されている。

(注)扇状地と河岸段丘
 
◎不動稲荷(別名出世稲荷)

  123段の参道の石段途中の右手にある祠。現地説明板の由緒書によれば、延宝8年(1680)5代将軍徳川綱吉(1646〜1709)の代、浜名湖北の旗本近藤登之助(旧細江町に初山宝林寺を開創)が、出世安泰を祈願した稲荷という。この縁起にあやかり夫・子供の出世がかなうという御神徳あらたかで、家内安全・昇進栄達・商売繁盛・福運を授けることから、庶民の信仰が厚く参詣者が絶えないという。

 (注)徳川綱吉
 (※)旗本近藤登之助…彦助堤の項参照

◎石段脇の句碑群

  石段の両脇には多くの句碑が林立しているがその中に弘化2年(1845)建立の芭蕉の句碑「ほろほろと山吹散るか滝の音」
がある。





 ◎本堂
  明治19年(1886)の再建。正面に豪華な破風、向拝の軒下に龍の彫り物。堂内の格天井の花鳥の絵画や大小様々な絵馬や参拝者の写真も奉納されている。
 












◎不動寺の梵鐘の由来  現地説明板
   当山の梵鐘は享保12年(1827)鋳造されたるが、惜しくも大東亜戦争に供出し、梵音(ぼんのん)35年絶えたり。依って発願し昭和55年(1980)晩秋に之を再鋳す。「暮れ六ツ時」(今の午後6時頃=酉の刻)に西方極楽浄土に向け撞かれし事より「夕焼けの鐘」として広く世に知られり。鐘楼は「宝形造(ほうぎょうづくり)」(方形造)、頂上「擬宝珠(ぎぼし)」より桷(たるき)にて扇に開かせ「扇桷(おうぎたるき)」と言われる建築様式で梵鐘との釣り合いが誠によく麗美なる容姿なり。  合掌
   直径72,7cm(2,4尺)
   全長127,3cm(4尺)
   重量450k(120貫)

 ◎三重塔と十六羅漢   江戸時代弘化2年(1845)建立
由緒書によれば、三重塔は金光明経塔といい、一石に一字の御経を刻み納経されている。塔には弘化2年当山8世圓成の代と刻印されている。この御経は除難の利益があり参拝することで災いから逃れることが出来ると説法されている。
 三重塔の周囲には仏道成就のため菩薩行を修行する釈迦の弟子十六羅漢像が配置されている。

(注)金光明経・羅漢

(2)北浜中学校前駅
 @地蔵堂

 ◎道本(どうほん)お堂の伝説  「現地説明板」
  お堂は文化12年(1815)に御薗村大工棟梁大石善左衛門・杣(そま)取(どり)新原村松甚蔵の手によって建築された建物で、大正時代まで茅葺屋根で角材の組込式建造物で、角釘を使用しており、大正12年(1923)4月瓦葺にかえて現在に至っている。浜北市でも数少ない建造物である。市の文化財に指定されていないが、市文化財の貴布祢薬師堂より………(以下不明) 子安地蔵は他より遷して祀ったもので、安産のご利益があると言い伝えられ、現在も十四日念仏をしてお祭りしている。
 お堂は子供達の良い遊び場でもあった。当時より於呂神社の境内にあったものである。平成の現代は於呂神社の飛び地として道本228番地に登記され、氏子総代の官選となっている。お堂はその時代時代の多くの人たちの寄進と協力により修復されてきた。この度補強工事が終わりここに記すものである。                平成4年2月28日
 ◎お堂と石松首なし地蔵  「手書きの説明板」
 
 このお堂は、秋葉路にそって常夜燈と共に1815年文化12年に大石善左衛門により建てられた。石松の首なし地蔵は、此処より3丁(300m)前方にあったものを、この地に移された。石松は三河の半原村の庄屋の家柄に生まれ、少年時代を森で過ごしたが、布嶋の兼吉と寺島に住む都鳥の源八の常により虐殺された。里人と4人組の手により地蔵堂が建てられた。この地蔵は家内安全・商売繁盛・目、耳の病に御利益があるとされ 地蔵が欠き取られて首なし地蔵になったものという。
              道本伝統保存会
 ◆2つの説明板とも、文字がうすれ判読出来ない箇所が多かった。

(注)森の石松について

A「於呂神社」 (現地説明板)
 ◎鎮座地  浜松市道本210(旧浜北市)
 ◎御祭神  大国主命 須佐之男命(素戔嗚尊)  磯部大神 大山祗(おおやずみの)命(みこと)
 ◎例祭日  九月十五日
 ◎由 緒  当社の御祭神は於呂神社・大国主命、津島神社・素戔嗚尊、御鍬神社・磯部大神、山神社・大山祗命の四社の神様が鎮座し合祀されている。平安時代後醍醐天皇医の勅により、延長5年(927)撰進せる延喜式内の遠江国長下郡四座のうち、登勒(とろく)神社と代々申伝えあり。創立年代不詳なれども千有余年の歴史があり、四辺の崇敬を集めていた。明暦元年(1655)霜月(しもつき)(陰暦十一月)再建の棟札を有し今日に伝えている。

(注)於呂神社…「遠江國風土記伝」・「浜名郡誌」

B天保堤  浜北市指定史跡 「現地説明板」
 
 天竜川は昔からたびたび氾濫し、ひとびとを苦しめましたが、天平宝字5年(761)7月に「遠江國麁玉河(現在の天竜川)が三百余丈(約1km)にわたって決壊したので、のべ三十万三千七百余人の人夫を徴発して、食糧を与えて修築した」と「続日本紀」という本に書かれています。この堤防は小林から浜松市有玉まで続いていたと言われていますが、今ではこの地にわずかに残っているにすぎません。しかし、1200年前の工事の跡が残っていることはめずらしく貴重なものです。    平成10年2月   浜北市教育委員会
※「天寶堤」  「遠江國風土記伝」 P238
 平口より玉に至る。凡そ長さ百町餘、昔麁玉河の水を防ぐ堤なり、「続日本紀」巻二十三に日ふ「天平宝字五年七月、遠江國麁玉川の堤決すること三百餘丈なり、単功三十万三千餘人を役し、粮を宛て修築す」と。

(3)遠州小林駅 
 @花咲乃庄(大箸家)  (現地説明板)

 大箸家は、近世末期造り酒屋として栄え、金融業も営み、当主藤次郎(1808;文化5年生まれ)が活躍したのは幕末期で、一代で天竜川流域ではその名を知らぬ者のないほどの在郷商人にのし上がった。寛永の頃には壱貫地村の庄屋も務めた旧家である。
 従って当地方では、彼の在郷商人としての名は高く、浜松藩や地元の旗本の調達金にも応じる一方、近隣諸村からの郷借にも精一杯融資したことが現在も大箸家に残る大福帳からも窺える。ちなみに彼が1867年(慶応3年)の一年間だけで動かした金は数万両にも上り、彼はあたかも当地方の金庫番のような存在であったが、その後の代になっていくつかの起業に参加、失敗衰退した。大箸家は金原明善翁(1832〜1923)とも関係がある。二宮尊徳(1787〜1856)の弟子、岡田良一郎(1839〜1915)が掛川に興した私塾冀(き)北学舎(ほくがくしゃ)で若い金原明善翁と大箸藤次郎が交流することになり、明善翁が天竜川の治水など行う際には協力を惜しまなかったと伝えられ、明善翁も大箸家の茶室によく泊まっていた。
 また先代の当主大箸篤平は金原明善翁の孫・義子と結婚している。現在の当主は、継承者に恵まれなかった先代の篤平夫妻に替わり、篤平の実弟藤田英二の長男晴康である。彼はホンダの長年にわたる開発機種総責任者(ラージプロジェクトリーダー)の経験と企画力を生かし、この貴重な屋敷を整備し、多くの人が来て、見て、触る事で「古人の智恵に学び、未来を考え、自らの花を咲かせること」を願い、ここを「花咲乃庄」と名付け、住居の一部を残し、一般に開放した。

(注)岡田良一郎

◎施設の概要  
 ☆母屋

寛永年間の1852年以前の建築。1階にはかまど・五右衛門風呂がみられ、かつて杜氏や蔵人が寝起きした60畳ほどの母屋の2階は多目的ギャラリーとしてイベント・展示会が開催されている。
 



☆東蔵資料館

東蔵資料館には江戸後期大箸家に伝わる品々や水野越前守から拝領したとう杯をはじめ、ラッパつき蓄音機・共鳴箱指揮蓄音機、家紋入りの船上水筒などが展示されている。




 ☆ 南蔵ギャラリー
各種イベント・展示会などに利用されている。








 ☆庭園

回遊式の日本庭園には、春は梅・桜、秋にはドウダンツツジが咲き乱れ、心を和ませてくれる。
 ☆その他
   おみやげ売店「小洒落屋」・そば茶屋「一貫」
 ●開館時間  午前10;00〜午後5;00
 ●休館日   毎週火曜日(祝日の場合は営業)
 ●入館料   大人500円 小人250円
 ◆交通 天竜浜名湖鉄道 「豊岡駅」下車徒歩18分
     遠州鉄道西鹿島線 「遠州小林駅」下車タクシー12分

 A北浜の大カヤのキ   現地説明板
   國指定天然記念物 昭和29年3月20日指定。
 
 カヤノキは、イチイ科の常緑樹で幹は直立しよく分枝する。実(み)は食用や薬用となるほか食用油もとれる。北浜の大カヤノキは、高さ22,3m、目の高さでの幹回り5,4m、根元回り15m、樹齢は凡そ600年と推定され、我が国のカヤノキの中でも有数の巨樹である。   昭和57年10月 浜北市教育委員会
※榧(かや)
  イチイ科の常緑高木。本州・四国・九州の山野に自生する。幹の高さ約20m、周囲3mに達する。葉は扁平線状、革質で厚く、先端は鋭い。雌雄異株。4月頃開花。実は広楕円形で、核(種子)は食用・薬用とし、また油を搾る。材質は堅くて土台・橋・桶・碁盤・将棋盤・駒などに用いる。種子を乾燥した生薬(しょうやく)の「榧(ひ)実(じつ)」は十二指腸虫駆除に効があるという。

 B彦助堤   現地説明板
  江戸時代の初め頃、天竜川は大天竜、小天竜の二つに分かれて流れていました。市内を貫いて流れる小天竜もしばしば氾濫し、人々を苦しめました。そこで延宝3年(1675)ここに堤防を造り小天竜の流れを締め切って、本流に合流させる工事が行われましたが、川の流れが強く工事が進みませんでした。
  それを見た庄屋の松野彦助は、自分が人柱(ひとばしら)となるから工事を完成してほしいと頼み川に身を投げました。その熱意にうたれた農民の努力により堤防は完成し、この堤防を「彦助堤」と呼ぶようになったとの伝説がよく知られています。    平成10年5月  浜北市教育委員会
(注)堤の跡が残っているが、付近はゴルフ場となり、石柱と説明板がなければ見落としてしまう。堤防上は現在農道になっている。付近には「庄屋・松野彦助屋敷の井戸跡」がある

 ◎「静岡県浜名郡誌」の「彦助堤」の記述(P89〜90)
  北浜村道本にあり。天竜川の堤防毎年潰乱(かいらん)、其被害甚だしく、為に人民の困難を感ずるもの多かりき。引佐郡麁玉村新原の人、彦助この堤防の改築につとめたるも日子(にっし)荏苒(じんぜん)(日数がすぎても中々進まない事)竣工を見る容易ならず。依って彦助、吾が腹に杭を打てとて水中に飛び込み、遂に惨死をとげたり。衆之れに励まされて、日夜兼行、日成らずして、其の功を終わることを得、被害亦前日の如くならず、衆始めて安堵するを得たり。土地の者之れを徳として、公共の為に力を竭(つく)す毎に、彦助の名を呼びて、互に精励し、今、尚美談とす。之れ延宝3年4月の事にして、彦助の裔(えい)(子孫)現戸主松野卯平という。
※慶安年間(1648〜52)の堤防は、1673年(延宝元年)と翌年の洪水で決壊した。そこで新原村庄屋彦助は、領主近藤縫殿助の援助指導の下に率先して所有地内に大築堤工事を実施した。大堤長61間高1丈、土堤長58間高4尺とあり1675年にしめ切りに成功した。

(注)近藤縫殿助用随・旗本近藤家(近藤5家)
(注)彦助堤…「静岡県史跡名勝誌」「静岡大百科事典」」の記述