(注)「彦助堤」 「静岡県史跡名勝誌」P258 北浜村道本にあり。天竜川の堤防毎年破壊し被害甚だしく、民皆困めり。引佐郡の人彦助堤防改築の役に従い、甚だ力めたれども荏苒(じんぜん)(物事がのびのびになること)日を経て、竣工を見る容易ならず。彦助奮然我が身が腹に杭を打てと叫び、自ら水中に投じて死す。衆之に励まされ日ならずして功を終ふ。是より堤始めて固し。よりてこの名あり。 (注)「彦助堤」 「静岡県浜名郡誌」 P89〜90 北浜村道本にあり。天竜川の堤防毎年潰乱、其の被害甚だしく、為に人民の困難を感ずるもの多かりき。引佐郡麁玉村新原の人、彦助、此の堤防の改築につとめたるも、日荏苒、竣工を見る容易ならず。依って、彦助、吾が腹に杭を打てとて水中に飛び込み、遂に惨死をとげたり。衆之れに励まされて、日夜兼行、日成らずして、其の功を終わることを得、被害亦前日の如くならず、衆、始めて安堵するを得たり。土地の者之を徳として、公共の為に力を竭す毎に、彦助の名を呼びて、互いに精励し、今、尚美談とす。之れ延宝3年(1675)4月の事にして、彦助の裔現戸主松野卯平といふ。 (注)彦助堤 「静岡大百科事典」P676 浜北市新原に在る」江戸前期の堤防。浜北市新原東原。麁玉川(天竜川)の洪水を防ぐ慶安年間(1648〜1652)の堤防は、1673年(延宝元年)と翌年の洪水で決壊した。そこで新原村庄屋松野彦助は、領主近藤縫殿(ぬいどの)助(すけ)の援助指導の下に率先して所有地内に大築堤工事を実施した。御普請覚え書きによると、大堤長61間1丈、土堤長58間高4尺とあり、1675年ついに締め切りに成功したと言われる。現在ゴルフ練習場東方にその一部が残されている。 |