2助信駅〜遠州上島駅 | |
遠州鉄道西鹿島線 〜沿線の史跡を訪ねて〜 1 新浜松駅〜八幡駅 (1)新浜松駅 (2)第一通り駅 (3)遠州病院前駅 (4)八幡駅 2 助信駅〜遠州上島駅 (1)助信駅 (2)遠州上島駅 3 さぎの宮駅〜遠州小松駅 (1)さぎのみや駅 (2)遠州西ヶ崎駅 (3)遠州小松駅 4 浜北駅〜小林駅 (1)浜北駅 (2)北浜中学校前駅 (3)遠州小林駅 5 遠州芝本駅〜西鹿島駅 (1)遠州芝本駅 (2)遠州岩水寺駅 (3)西鹿島駅 ※参考にした本等 |
この区間の路線距離は2,9km。助信駅下車後、500m程もどり左折し兼吉地蔵を祀る小堂を見てから、再び助信駅から上島駅へ。白華寺(赤池薬師)までは徒歩で片道約30分暑い日で地元の人に尋ねても分からず随分と回り道をした。地元の年寄りは「赤池さん」と呼んでいた。 (1)助信駅 ★刀工志津三郎兼吉地蔵…新津町 「浜松の史跡」より 兼吉地蔵尊を祀る地蔵堂境内の一画には「史蹟 刀工志津三郎兼吉」と刻まれた史蹟碑が建てられている。兼吉は正宗門下十哲の一人志津三郎兼氏(1278〜1344)の流れをくむ関の善定一派の開祖とされている。上杉禅秀の乱(1416)の時、足利方に属する刀工とし関東に向かった兼吉は、戦いが終わっての帰途、遠江浜松在で病気になり、敷智郡新津村の豪農高岡家で療養を続けたが、快復することなく異郷の地で没したといわれる。そのため高岡家の当主が屋敷の一画に地蔵尊を祀り、兼吉の菩提を弔ったのが+「兼吉地蔵」であるという。その後、高岡家に不幸が続いたため、屋敷より現在地に移して手厚く祀ったといわれる。 兼吉をうたった和讃があり、最近まで年寄り達が定期的に集まり念仏を唱えていたが現在は行っていない。小堂を管理する人もいなくなったのか最近訪ねた折りにはかなり荒れ放題になっていた。 なお敷(ふ)智(ち)郡(ぐん)新津村・助信村の地名は志津三郎兼吉の「志津」が「新津」に、「助信」の地名も刀工助信からとったものと伝えられている。 (注)志津三郎金吉和讃 (2)遠州上島駅 ★赤池山白華寺(はっかじ) ◎略縁起…桓武天皇の御代の延暦13年(794)征夷大将軍坂上田村麻呂(758〜811)が東征の折り、遠江國の岩田の海に赤蛇が住み、海を渡る人に危害を加えた。将軍は住民達の苦しみを救おうと、遠江國小笠郡堀之内(現菊川市)の潮海寺から薬師如来を勧請し、薬師堂を建立し祈願した。仏力により赤蛇は将軍の子(俊光)を形見として田村麻呂将軍に預け、海の航行往来の安全を約束して二俣鹿島の「椎ヶ脇」に沈んだと伝えられている。寺の境内には、寺伝によれば、白華寺は真言宗潮海寺末、赤池山光福院といい、東円院・三松院等末寺六ヶ寺があったが、末寺は廃寺となり、光福院も無住に等しい荒れようであった。しかし、薬師堂のみは里人の信仰で存続。江戸時代からは眼病祈願成就の霊験ありと知られ多くの祈願者で賑わった。また、遠江四十九薬師第二十五番札所として、薬師霊場巡りの巡拝も盛んになり、毎年2月8日の例祭には近隣の念仏講中による和讃も大正末期まで行われた。明治29年(1896)当時光福院兼住上島村延命寺十六世杉蓬三和尚から積志村半田、実相寺住職館燈外和尚に引き継がれ、細江町から白華寺を移して黄檗宗に改宗した。昭和に入り、京都から松居弘倫師(後に盛岡市大慈寺住職)を住職に迎え、現在に至っている。 (注)坂上田村麻呂 ◎二代将軍俊光公誕生の「産湯の池」 ◎赤池薬師杉…樹齢推定600年、昭和52年(1977)市保存樹木指定名木となる。 ◎江馬加賀守平時成之墓…薬師堂裏手の階段を上がった所。 ◎江馬殿松 「初代嘉吉元年(1441)地方管領江馬氏の霊跡として薬師堂再建記念に「御手植えの松」と称した。二代目は永禄11年(1568)12月15日、江馬加賀守平時成遠州曳馬城で討死。この地に埋葬、印として松を植える。天明5年(1785)老松風雨のた枯死」。と説明板に記されていた。 (注)「江馬殿松附江馬加賀守の屋敷及び墓地」 『浜名郡誌」 |