(注)「森の石松」について @森町役場のホームページ ●森の石松 森の石松は、三河の国、富岡(愛知県新城市富岡)の生まれ。先祖は山本庄次郎。代々名乗った庄屋も勤めた事のある家柄であったが、石松の代に自宅から火災を出した事などが現員で没落し、父親は幼い石松を連れ、森町へ流れて来た。天宮神社の祭礼の日、雑踏の中で迷子となったが、その頃街道一帯に縄張りを持ち、遠近に侠名をはせた職業柄に似ず、温厚な性格の「任侠 森の五郎」に引き取られ、少年時代を森で過ごした。 後に、当時売り出し中の「清水次郎長」が、森の五郎宅に足を留めた際、石松の人となりを観察し、引き取りを希望したため、清水次郎長の子分となる。天保の末年頃で、石松14〜15才と言われている。成長した石松は、次郎長に従って遠征して、各地の舅雄を屈服し、「遠州 森の石松」の名声をほしいままにした。 金比羅宮代参の帰途、遠州中郡の都鳥吉兵衛のだまし討ちにあい、悲壮な最期を遂げた。万延元年(1860)6月のことであった。石松は極めて正直、単純な性格であったが、正義を尊び、不義背徳を憎しみ、粗暴な権力に反抗し、常に弱い者の味方であった。当時の侠客時代にあっても希に見る理想的な快男児であったと言われる。 ●森の石松の墓 変遷 ◆昭和10年 石松墓石建立(御影井戸付近) 天竜川の自然石 高さ150cm幅90cm 奥行き20cm ◆昭和18年 石松墓石を」各位の奉仕により、現在地に移転。 墓石移転の際に清水次郎長3代目が関係者と共に石松の墓参に来寺。 ◆昭和28年3月 清水次郎長翁碑建立(この頃から墓石削られ始めた) ◆昭和30年 石松墓石が削られ、墓石の字が欠かされた。 ◆昭和40年 墓石が丸く変形してきた。 ◆昭和46年 石松供養祭に続いて、清水一家28人衆に扮した 有志が四国金比羅様へ参拝に旅立つ。 ◆昭和47年 金比羅代参の帰りに殺された石松を、悔やんだ次郎長親分が、建立したものと思われる石松の石塔を、愛知県鳳来町の渡邊さん方から移転。 ◆昭和50年 墓石の変形著しくなる。 ◆昭和52年3月 森の石松墓石(2代目)建立 神奈川県根府川の自然石 高さ160cm 幅90cm ◆昭和54年1月 森の石松墓石(2代目)盗難。 ◆昭和54年3月 森の石松墓石(3代目)建立と同時に次郎長翁碑建立 南アフリカ産御影石 高さ180cm幅75cm 奥行24cm ◆昭和57年 盗難にあった石松墓石(2代目)発見される。 ◆平成7年 石松墓石(3代目)修復 清水次郎長翁碑(2代目)修復 A「森の石松」 フリー百科事典「ウイキペデイア」ホームページ 生年月日不明。1860年7月18日(万延元年6月1日)は、清水次郎長の子分として幕末期に活躍した侠客。出身地は三州半原村(後の愛知県新城市富岡)とも遠州森村(後の静岡県周智郡森町)ともつたえられるが定かではない。浪曲では「福田屋という宿屋の倅(せがれ)」ということになっている。森の石松の「森」とは森村のことである。半原村説では、半原村で生まれたのち、父親に付いて移り住んだ森村で育ったという。 孤児となった石松は侠客の森の五郎に拾われた。侠客同志の喧嘩から上州(後の群馬県)で人を斬り、次郎長に匿(かくま)われてその子分となった。酒飲みの荒くれだが義理人情に厚く、どこか間が抜けており、温泉地の賭場でインチキサイコロを使って100両設けたと思ったら翌日以降300両負けて次郎長の湯治費を丸ごとすってしまい、仲間から「馬鹿は死ななきゃ直らない」とからかわれた。といった愛すべきキャラクターとして講談や浪花節(浪曲)にも数多く登場する。 病で先立たれたばかりの次郎長と共に宿敵を討ち果たし、親分のお礼参りの代参で金刀比羅宮へ出かけた帰路、方々から預かって板次郎長への香典をねらった侠客の都だの吉兵衛(後の浜松市都田町。講談や浪曲では「都鳥」とされる)に、遠州中郡(なかごおり)(旧浜北市小松・現浜松市小松)にて騙し討ちに遭い、斬られて死亡した。吉兵衛は翌年万延2年(1861)次郎長によって討ち果たされた。 石松の事を伝える史料の代表格は、一時期次郎長の養子であった天田五郎(ペンネーム・山本鐵眉。後に出家して愚庵と号した)が、1884年(明治17年)出版した「東海遊侠伝」であり、その後の次郎長伝のルーツとなっている。たとえば中島儀市の「明治水滸伝清水次郎長の伝」(1886)、村松梢風著「正伝清水次郎長」などである。 墓は静岡県周智郡森町の大洞院(曹洞宗)をはじめ複数あるが、いずれが正墓かさだかではない。 ※森の石松の墓 @周智郡森町 大洞院 A静岡市清水区(旧清水市)梅蔭寺…清水次郎長と子分の墓 ・清水次郎長 ・仙右エ門 ・小政 ・大政・石松 ・てふ(一代・二代・三代)同墓に連紀(次郎長妻) B新城市富岡 洞雲寺 石松の先祖は山本姓で諏訪の藩士であったが、三州堀切(現在の新城市富岡字堀切)に移り住み百姓となった。石松の生まれた頃長男が死亡し、三度も火災にあう不幸が重なり、石松の父は堀切を捨て、遠州森町に出て炭焼きを始めた。ある日、森町の祭礼で迷子になった石松は、次郎長に引き取られた。元来剣術に優れていた石松は、次郎長の用心棒になり、大政小政らと共に活躍した。最後は濱松の都鳥一家に無惨ににも殺され、一緒にいた弟の庄治朗が石松の遺体を馬につけ、故郷の堀切の洞雲寺に運んで手厚く葬った。 「新城市観光協会」のホームページより ※森の石松供養祭 毎年森町の大洞院にておこなわれるが、平成18年は3月26日(日) は13時から、大洞院の石松の墓前(森町橘249)で供養祭式典が行われ、森町役場から天宮神社まで次郎長28人衆に扮した次郎長一家の仮装行列が街中を練り歩いた。そのほかも餅投げ・甘酒・湯茶の接待のほか特産品販売など多くのイベントで賑わった。 |