徳川綱吉(1646〜1709・在職12680〜1709) 家光の4男。幼名徳松。院号は常憲院。寛文元年(1661)上州館林に25万石を領有。延宝8年(1680)兄の家綱(1641〜80・在職1651〜80)の養嗣子となり、西の丸に入り、同年8月題代将軍となった。堀田正俊(1634〜84)を大老に任じ、幕府財政を再建に務め、朱子学を官学とし、湯島に聖堂を建立するなど文治政治を推進したので、綱吉治世下の文化を元禄文化という。 正俊の死後、側用人の柳沢吉保(1658〜1714)に政治をゆだね、貞享4年(1687)の「生類憐みの令」は、庶民を苦しめ「犬公方」と呼ばれ、また荻原重秀の建議で悪貨を鋳造して物価上昇を招くなど悪政が多かった。 「ブリタニカ国際大百科事典」「日本史事典」 ※生類憐みの令 江戸中期5代将軍徳川綱吉が出した極端な動物愛護令。 1685年以来しばしば発令。綱吉は嗣子徳松の夭折以来、盛んに子宝の授かるようにと祈祷をしたが効果はなかった。真言僧・隆光の「生類の殺生を禁じ、綱吉が戌年生まれのため特に戌を愛護すれば、前世での罪障を消す事ができ、子供も授かる」との言をいれて、貞享4年「生類憐みの令」を発令し其の死まで励行させた。 戌に対する愛護は極端で、元禄8年(1695)には、江戸郊外の中野・四谷・大久保などに犬小屋を建てて戌を養い、その数十数万匹に及んだといい、その費用を江戸の町人に課した。違反者は厳罰に処せられ、切腹・遠島もしばしば行われた。そのため、町人の苦しみと不満が増大した。綱吉の死後6代将軍家宣(1662〜1712・在職1709〜1712)により、直ちに廃止された。 「ブリタニカ国際大百科事典」ほか ※隆光(りゅうこう=1649〜1724) 江戸時代中期の新義真言宗の僧。大和(奈良県)の人。5代将軍徳川綱吉とその母・桂昌院の帰依を得、将軍家護持僧として綱吉の信任を得た。筑波山の知足院を江戸湯島に、1688年江戸神田橋外に移して護持院と改称し開山となった。京都、奈良、高野山で顕教・密教の学をきわめ、のち大僧正に任じられ、権威を以て諸社寺を興隆し、また大いに根来山の復興を図った。綱吉にすすめて「生類憐み令」(貞享4年)を行わせるなど、将軍の寵愛を一身に受けたが、綱吉没後は郷里の超昇寺に隠棲して没した。 「ブリタニカ国際大百科事典」ほか |