1 菅原町〜若林町
東海道・浜松宿〜舞坂宿

 1 菅原町〜若林町
 @子育地蔵
 A鎧橋
 B若林一里塚
 C二つ御堂
 D八幡神社
 E諏訪神社

 2 増楽町〜篠原町
 @熊野神社
 A増楽の「ぼう示杭」
 B堀江領界石
 C立場本陣跡
 D神明宮
 E篠原の一里塚
 
 3 坪井町〜馬郡町
 @稲荷神社
 A富士山東光寺
 B史蹟 稲佐山大悲院観音菩   薩聖跡(馬郡観音堂跡)
 C東本徳寺
 D西本徳寺
 E春日神社

 4舞坂宿
 @舞坂宿概要
 A舞坂の松並木
 B史跡 見付石垣
 C一里塚
 D各町の常夜燈
 E宝珠院
 F岐佐神社
 G指月院と観音堂
 H本陣と脇本陣
 I雁木跡
 J那須田又七顕彰碑

 ※参考にした本等
@子育地蔵  浜松市菅原町
     「現地説明板」 



              「現地説明板」
  「長年子供に恵まれなかった町民が、願をかけたところ子供が授かったといわれる地蔵尊です。戦前は、今はない地蔵堂に集まり7月24日に地蔵盆を盛大に催していました。」
 コンクリート製の台の上に、屋根を付けた小さな小屋の中に、所せましと、大小様々な地蔵尊が20体近く安置されている。何時来ても香華の絶えることがない。 
 ◎中央  
 ★ご本尊  首なし地蔵
    








 ★方形の石標…巡礼供養碑
   享保八卯八月廿八日
   奉納 遠江順礼供養仏
   七軒町
   上新町  同行男女十六人
(注)享保八年は(1723)8代将軍徳川吉宗の時代。 上新町は現在の西菅原、七軒町は現在の東菅原町

 



◎左端…比較的新しく、最も大きい石地蔵
 、高さ3尺ぐらいで子供を抱いた形  に刻んだ地蔵尊は、昭和17年頃、菅原町の某家で長年子供がなかったが、こ こに願を掛けたら子種が授かったので、その子がよく育つようにと寄進したもの。
 







◎右端…1尺くらいの石像
     「性達童女 嘉永四亥十二月五日」と刻む
 昭和初め頃まで菅原町として、年一回盂蘭盆会の時、地蔵堂に集まり子供を主体とした地蔵盆を盛大に行った。地蔵堂は戦災のため焼失したが、近くに住む増井さん(クリーニング店)により、昭和39年に再建されたが、道路か拡幅工事のため平成6年現在地に新築移転し、毎年盂蘭盆会には、大巌寺の住職を招いて供養祭を行っている。
 「わがまち 文化誌 学びの里、祈りの丘」P241〜42 「土のいろ」復刊第1号 通巻84号 P31〜32

 A鎧 橋    「現地説明板」
 平安時代末期、戒壇設置のことで、比叡山の僧兵が鴨江寺を攻めた時、鴨江寺側の軍兵は、この辺一帯の水田に水を張り、鎧を着て、この橋の守りを固めて戦ったので、その後、「鎧橋」と称したという。その時の双方の戦死者およそ千人を鎧橋北側に葬り、千塚(または血塚)と言ったと伝えられている。
     昭和五十一年七月三十一日
        可美村教育委員会
        可美村文化財保護審議会
 
 (注)1、戒壇と戒律
 (注)2、戒壇塚附血塚(浜松市史)
 (注)3,鎧橋と血塚
 (注)4,鴨江寺

 B若林の一里塚   「現地説明板」
 慶長六年辛丑(かのとうし)正月(1601)徳川家康(1542〜1616在位1603〜1605)東海道に駅伝馬制を定め、江戸より京都まで五十三の宿場を設けました。同九年幕府は一里毎に五間(約九メートル)四方の小高い塚を道の両側に築いて榎を植えさせました。
 ここは、江戸より六十六里、昔は土手のある松並木が続いて(八丁畷)榎は街道を行く旅人の道標でした。
 附記大正十一年静岡史蹟調査記録に
     南側九番地、畑、渡邊有蔵昔一抱えの榎ありしと
     北側七番地、宅、山口半兵衛昔大榎ありしと
     昭和五十三年八月   可美村教育委員会
                可美村文化財保護審議会

 (注)5,一里塚について
 (注)6,若林一里塚

 C二つ御堂とその周辺
  ◆二つ御堂


       北堂                阿弥陀如来

 奥州平泉の藤原秀衡公と、その愛妾によって天治年間(1125年ごろ)創建されたと伝えられている。
 京に出向いている秀衡公が大病であることを聞いた愛妾は、京へ上る途中、ここで秀衡公死去の知らせ(誤報)を聞き、その菩提を弔うために、北のお堂(阿弥陀如来)を建てたという。









        南堂                薬師如来

 一方、京の秀衡公は、病気が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝の気持ちをこめて、南の堂(薬師如来)を建てたという。現在の北堂は、昭和30年(1955)改築、阿弥陀如来・地蔵菩薩・毘沙門天が南堂は昭和12年(1937)新築、薬師如来・不動明王・大日如来が祭られている。
   毎年十二月十四日 供養が行われている

 (注)7、二つ御堂について
 

 ◆秀衡の松    「現地説明板」
  二つ御堂の西に周囲二丈余(約6m)の秀衡松と呼ばれる古い松がありました。「秀衡の側室の亡骸を埋めた所に、秀衡が植えた松である」と伝えられています。明治15年頃までは老木となって残っていました。   「浜名郡誌」より
     昭和53年8月    可美村教育委員会
                可美村文化財保護審議会
 
 ◆高札場跡   「現地説明板」
 この付近に柱を立てて高札を掲げた高札所がありました。村の人々に法令やおふれを周知させるために書かれた木札を高札といいます。明治3年頃(1870)廃止されました。       
              可美村教育委員会
                             可美村文化財保護審議会
 
 ◆石仏(馬頭観音像)
  二つ御堂の隣接地に据えられている。建立年代は近世中期。蓮華座下の台座に「宿中馬」と刻まれている。以前は路傍の露天にすえられていたが、道路拡張により移転し現在は小堂に安置している







 D八幡神社    東若林町1160  「現地説明板」
                         ◆八幡神社
  一、祭神   品陀和気尊(応神天皇)
  一、別社   若宮明神・三王・八剣・瑞生権現の五柱社
         明治4年寺社領没収により境内別社として祀る。
  一、大祭   十月十日旧八月十五日なりしも大正中頃、教育的見地より各字統一す。
  一、由緒   創建年代不詳。当社は山城國(京都府)石清水八幡宮より奉迎す. 

 神明社は沼田池干拓事業完成により、山口権右衛門藩主に願い勧請すとあり。棟札に天正七己卯年(1579)極月(12月)神主彦右衛門慶安二己丑年(1649)九月改築。宝永元甲申年(1704)八月改築とあり、鳥居に正徳五乙未年(1715)十月吉日とある。尚、現在の本殿は昭和15年本殿改築の際の古材を利用す。
  
  ◆樟  「現地説明板」
  此の樟は元、東若林の西南に忠魂碑があり、其処に植えられてあったものです。此の忠魂碑が時代の要請により大正七年当時の可美尋常高等小学校(現在の可美市民サービスセンターの位置)に移転されました。敷地内にあった此の樟を東若林青年会が特に願って貰いうけ、青年会の記念事業の一端として、同年十月八幡神社前の現在地に移植したものです。移植当時の幹の太さは、43cm(回り1尺4寸)程でありましたが、65年の年月を経た現在(昭和58年10月)日本共165cmに立派に成長しました。皆さんどうか大木になるようかわいがって育てて下さい。       
 若森秋一氏調査資料より
                   
 ※忠魂碑は諏訪神社に隣接した場所に、移転し祀られている。入口には可美村の沿革を記した石柱も立てられている。
 
 E諏訪神社(旧名諏訪明神)  「現地説明板」
       浜名郡可美村若林1405−1(現浜松市若林)
  一、主祭神  建御名方命(大国主命)
  一、別社   天神社・六所社・八幡社三社を明治4年寺社領没収により本社    に合祀。秋葉神社を別社として境内に祀る。
  一、大祭   十月十日、旧七月二十七日なりしも、大正中頃教育的見地より    各字統一す。
  一、由緒   太政官布告、社領没収令により東組天神社、東中組六所社、     西中組八幡社を明治七年五月吉日諏訪社に合祀。同十二年村社に列せられ諏訪神社と称す。大永四年(1524)信濃國(長野県)南方美社(上諏訪社)より内田六郎兵衛勧請。明治中頃まで代々神主となる。慶安元年十月二十四日(1648)三石を幕府より下賜さる。朱印状写し九枚現存す。
 ※諏訪神社は創建当初より、今日まで同じ位置にある。