4 舞坂宿
東海道・浜松宿〜舞坂宿

 1 菅原町〜若林町
 @子育地蔵
 A鎧橋
 B若林一里塚
 C二つ御堂
 D八幡神社
 E諏訪神社

 2 増楽町〜篠原町
 @熊野神社
 A増楽の「ぼう示杭」
 B堀江領界石
 C立場本陣跡
 D神明宮
 E篠原の一里塚
 
 3 坪井町〜馬郡町
 @稲荷神社
 A富士山東光寺
 B史蹟 稲佐山大悲院観音菩   薩聖跡(馬郡観音堂跡)
 C東本徳寺
 D西本徳寺
 E春日神社

 4舞坂宿
 @舞坂宿概要
 A舞坂の松並木
 B史跡 見付石垣
 C一里塚
 D各町の常夜燈
 E宝珠院
 F岐佐神社
 G指月院と観音堂
 H本陣と脇本陣
 I雁木跡
 J那須田又七顕彰碑
 
 
 ※参考にした本等
 
 @舞坂宿概要
   舞坂宿  日本橋から67里16町45間(265km)
   @総人口  2475人 男;1254人 女;1221人
   A家数   541軒
   B本陣  2軒  脇本陣  1軒
   C旅籠  28軒
 ※中世は舞沢・舞沢松原・廻沢・前沢とも呼ばれていた。慶長6年(1601)以後「舞坂」になった。 明応7年(1498)の大地震で津波に流され、浜名湖と遠州灘を区切る部分に一里の切り口が開いた(今切)。海と繋がって以来「今切の渡し」という。旅人はすべて舞坂から船でここを渡った。
 海上約1里の舟旅だが、新居の関所の開門時に間に合わせて舟が運航されてういたため、昼七つ(午後4時頃)を過ぎて舟は出なかった。また渡船場は階層によって三ヶ所に分かれており、一般の旅人は「南雁木」のみを利用した。
 水害から宿を護るため防波堤が築かれ、渡船場にも石垣を築いて水際まで石畳を敷き詰めなどの工事がなされている。この渡船場があるおかげで、小さな宿にもかかわらず舞坂宿は賑わいをみせた。
 
 「古地図・古写真で見る 東海道五十三次」   P102
  「図説  東海道歴史散歩」          P141
 
 (注)16、舞坂(東海道名所図会)
 A舞坂の松並木   舞坂町長池町〜新町
 舞坂宿の加宿(かしゅく)だった敷智郡馬郡村から舞坂宿にかけての東海道往還の松並木。







◆東海道松並木の碑  「現地説明板」
   表面…東海道 五拾三次内 舞阪 三拾之宿  平成三年








  裏面…東海道松並木
  この松並木は、慶長9年(1604)徳川家康の命により街道を整備し、黒松を植えたのに始まる。正徳2年(1712)には舞阪宿の東端「見付石垣」より馬郡まで、8町40間(約920m)道の両側の堤に、1,420本の立木があったという。
  その後、寿命や台風で倒れる一方で、その都度補植など行ってきたが、昭和13年(1938)国道付け替えの際。堤を崩し両側に歩道をつけ今日の姿になった。現在700m、株数屋杭340本に東海道の面影を良く残している。
                  舞坂町・舞坂教育委員会

 ◆舞坂宿の碑   「現地説明板」
   表面…舞坂宿  平成三年

   裏面…左 今切のレリーフ
      右 舞坂 今切真景
 舞坂宿は、日本橋から67里(264,9km)品川宿から数えて30番目の宿である。東海道の陸路は、舞坂で一度切れて、ここから新居宿まで海上一里半船を頼りとして渡ることになる。
 浜名湖は、かつて遠淡海(遠江)とうたわれる淡水湖であったが、明応7年(1498)の地震により切れて入海となった。その切口を「今切」と呼ぶ。地震による被災から復興して「今切渡船」の発着地となり、舞坂は交通の要地となった。

 ◆舞坂橋跡   現地説明板
 ここには江戸時代、舞坂唯一の橋である「舞坂橋」架かっていました。北には「西長池」という大きな池があり、南側から松並木を横切って、昭和10年(1935)
頃まできれいな水が流れていました。
 天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」には、次のように書かれています。
 「字舞坂橋 1,土橋 長さ7尺 横3間 橋杭4本立弐組」
是は前々より御普請所にて、寛政10年(1798)御代官辻甚太郎掛りにて、御普請これあり、もっとも土橋のため、保持に難あり宿駅で板橋に架け替えをした。
             舞坂教育委員会

 ◆浪小僧のモニュメント  現地説明板
 むかし、遠州灘の浜では、地引き網漁が行われていました。魚がとれない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師達は気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓を叩いてお知らせ致します」というので、海にもどしてやりました。
 それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと伝えられています。
       「遠州七不思議」より

 B史跡 見付石垣   「現地説明板」
  この石垣は、舞坂宿の東はずれに位置している。石垣の起源の詳細明らかでないが、宝永6年(1709)の古地図には既に存在している。見付は見張所にあたり、大名が通行の時などには、ここに6尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である。      
            舞坂町教育委員会

C一里塚跡  「現地説明板」
  江戸幕府が日本橋を基点にして、街道に一里塚を築かせたのは、慶長9年(1604)とされる。天保年間(1830〜44)の宿村大概帳には、舞坂宿は江戸より67里16町に位置しており、ここの一里塚は左右の木立共松と書かれている。
  しかし、古老の話では、大正時代まで一抱え半もある大きな榎の木が、枝を四方に繁らせていたというから、幕末頃には榎の木が植わっていたと解釈してもよいだろう。なお、北側の一里塚は、土地台帳に町有地としてわずかに、名残を留めているのみである。
            舞坂町教育委員会
 
 D各町の常夜燈   
  ◆新町の常夜燈  「現地説明板」
 ここの常夜燈は、正面が秋葉大権現、西面が津嶋牛頭天王、南面が両皇大神宮、東面が文化12年(1815)乙亥正月吉日と彫られており、文化12年に建立されたことが分かる。江戸時代の舞坂は、よく火災に見舞われ、特に文化6年(1809)には、宿場の大半を焼く大きな火事があり、復興に大変難儀をしている。当時火防の山、秋葉信仰の高まりと共に、人々の願いにより、この常夜燈がこんりゅうさたもので、その世話は現在も地域の人達に引き継がれている。               舞阪町教育委員会
 
 ◆仲町の常夜燈    「現地説明板」    宝珠院入口向かって左
  文化6年(1809)舞坂宿の大半を焼く大きな火災があり、復興に大変難儀をしました。火防(ひぶせ)の山、秋葉信仰の高まりと共に、仲町の願により4年後の文化10年(1813)5月吉日に、この常夜燈が建立されました。両皇大神宮・秋葉大権現・津嶋牛頭天王の銘が刻まれ、高さは台座ともで2,7mあります。
 なお、西側の石の祠は、秋葉山を祀ってあります。ちなみにここ宝珠院は、明治6年(1873)舞阪町に初めて小学校が開かれた所です。 
         舞坂町教育委員会
 
◆西町常夜燈  「現地説明板」
  舞坂には往還道路沿いに3つの常夜燈があるが、ここは正面が両皇大神宮、西面が秋葉大権現、東面が津嶋牛頭天王、南面が文化10年(1813)に建立されたことが分かる。舞坂宿では、文化6年(1809)西町より出火、宿の大半を焼く大きな火事があり、復興に大変難儀をした。当時火防の山、秋葉信仰の高まりと共に、人々の願によりこの常夜燈が建立されたもので、その世話は現在も西町の人たちに引き継がれている。            舞坂町教育委員会


 E宝珠院  仲町
      森田屋彦之丞・大森三次郎の墓
 2月6日の「海苔の日」にhさ、舞坂漁協主催の「海苔供養祭」が行われている。これhさ、舞坂に海苔養殖を伝えた森田屋彦之丞・大森三次郎の遺徳を偲ぶために始められた。
 森田屋彦之丞は、信濃國(現長野県)生まれの海苔商人であった。文政3年(1820)大森(現東京都)居住の三次郎と共に、海苔の養殖を伝えた。彦之丞は昭和6年(1831)57才でこの世を去り、故郷の諏訪郡湖南村善光寺に葬られた。死後50年を経た明治20年(1887)頃、舞坂町では彦之丞の遺徳を顕彰するため、諏訪に代表を送り、彦之丞の分骨を譲り受けて、舞坂町に持ち帰り、指月院に埋葬したが、その後廃寺となったため、宝珠院に遷された。
 また昭和42年(1967)大森三次郎の墓も、彦之丞の隣りに建てられた。以前は毎年11月4日に祈願祭を行って豊作を祈り、養殖も終わりの2月14日に感謝祭を行っていたが、「海苔の日」が出来て以来、その日にあわせて2月6日に行っている。
 
 F岐佐神社
  ◆岐佐神社御由緒   「現地説明板」
  御祭神  蚶貝(ささがい)比売命  蛤貝(うむがい)比売命
  御由緒  平安時代に書かれた「延喜式神名帳」に遠江六十二座。敷智郡六 座の一つとして記載されており、千年以上の古社である。明応7年(1498)の地震津波では、浜名湖の湖口が切れて「今切」となり、舞澤(舞坂)の郷は、人家と共に水中に埋没した。満目荒涼たる砂丘上の柳の根本に「岐佐大明神」の小祠を見つけ、住民は社殿を建立して祀った。これが現在の御鎮座の地である。
 無事難を逃れた住民は、付近の松原に部落を作り、現在の舞坂待ちのもとを なした。これを「三十六屋敷」という。天正2年(1574)以来、数次の本殿・拝殿 再建の棟札を保存している。慶長6年(1601)伊奈忠次公より、御神領3石、慶安元年(1648)徳川家光公より御朱印状により、神領5石を奉献され明治維新に至る。 明治6年(1873)郷社に列し、大正9年(1920)神饌幣帛供進 社となる。現在の社殿は大正元年(1912)の造営である。

 ◆赤石の由来  岐佐神社境内 「現地説明板」
  古事記に登場する「因幡の白兎」に続くお話です。大国主命は兄弟達と恋争いの末、八上比売と結婚の約束をします。恋に破れた兄弟達は、大国主命を手間山に呼び出して殺そうとはかり、「山の上から猪を追い降ろすから、山の下で捕らえろ」と言いつけて、真っ赤に焼いた大石を、転がり落としました。この大石を抱きとめた大国主命は、大やけどを負い、命を落としました。これを知って悲しんだ母神は、天上の神皇産霊神(かみむすびのかみ)に命乞いをされます。
 神皇産霊神は、娘神で岐佐神社の御祭神である「蚶貝比売命・蛤貝比売命」に言いつけて、大国主命の治療に当たらせます。蚶貝比売命(赤貝の神)は貝殻を削って白い粉末を作り、蛤貝比売命(蛤の神)は、粘液を出して練り合わせ、どろどろした母乳のようなものを作り、大国主命の全身に塗りました。すると火傷はすっかり治り、大国主命は雄々しい姿によみがえったのです。
 出雲神話と岐佐神社とは、このようなかかわりがあり、ここに「赤いし」が祀られています。御祭神が海に関係するところから、水産・漁業の神であると共に、この神話に因んで、火傷・病気にも霊験あらたかと信仰を集めています。

 F本陣と脇本陣
  ◎本陣
 ◆宮崎伝左衛門本陣  舞坂2089−1  遺構なし 「現地説明板」なし
  2軒の本陣のうち、歴史的にも規模の上でも優位にあったのが、宮崎伝左衛門家。文久2年の「宿内絵図」によると、「間口11間2尺、奥行き20間3尺、建坪130坪、畳敷160畳、板敷23坪5分、土間18坪6分、御本陣伝左衛門」とある。宿村大概帳には「本陣西町凡建坪158坪、門構、玄関付」と記している。
 江戸時代多くの諸侯が宿泊し、明治初年明治天皇が4回にわたって小休している。
 文化年間の火災で母屋焼失、その後再建されたが、明治期に入り本陣家の瓦解に伴い、土地建物の大半を売却。昭和10年頃までは一部残存していたが、現在は遺構・建物など全くない。        
  
  ◆源馬徳右衛門本陣     舞坂2094  遺構なし
 「宿村大概帳」には、「本陣、西町凡建坪90坪、門構、玄関付」文久2年の「宿内絵図」では「陣徳右衛門間口8間半、奥行14間5分、惣畳数86畳半、惣坪数100坪5分」現在建物なし。1軒おいて東側が宮崎本陣跡。
                            
      ◇舞坂宿 源馬徳右衛門本陣跡   「現地説明板」
 この地は、東海道舞坂宿宮崎伝左衛門本陣跡です。江戸時代、公家・大名・幕府役人などが、旅の途中宿泊・休憩したところです。
                 舞坂町教育委員会
 
 ◎脇本陣
 ◆堀江清兵衛脇本陣(茗荷屋) 舞坂町舞坂2091
   「宿村大概帳」には「脇本陣 西町 凡建坪84坪 門構無之玄関付」とあり、脇本陣には門がなかった。文久2年の「宿内絵図」によると「間口5間・奥行15間・惣畳敷76畳半・惣坪数75坪・二階畳敷23畳・此坪数11坪5分 脇本陣」とあり、一部二階になっていたことがわかる。
  脇本陣当時の両側には旅籠が建ち並び「掛塚屋」「桔梗屋」「桝屋」「浜松屋」「藤屋」などの屋号が「文久2年の「宿内絵図」にみられるが、現在は商店街となっている。

      ◇舞坂宿 堀江清兵衛脇本陣(茗荷屋)  「現地説明板」
 舞坂宿は、慶長9年(1601)東海道宿駅制度設定に伴い、開設された五十三次のうち、江戸から三十番目の宿駅で、弘化2年(1845)の資料では、人口1,204人・戸数265戸でした。また本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)と相本陣(源馬徳右衛門)があり、源馬本陣の向かい側に脇本陣(茗荷屋 堀江清兵衛)がありました。
 脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で、普段は一般の旅籠屋として使われました。
 建物は母屋・繋ぎ棟・書院棟で構成され、現構で間口5間・奥行き15間ありました。現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では、唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。
 平成7年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟瓦に「天保九年五月吉日 横山村瓦師政右衛門」の篦書が発見され、書院棟が天保九年(1838)の建築であることが判明しました。
        平成九年 舞坂町教育委員会

 H指月院と観音堂    「現地説明板」
このお堂は指月院の本尊であった十一面観世音や金比羅大権現などが祀られています。ここには以前から十王堂がありましたが、正徳2年(1712)龍雲和尚により指月院が建立されました。宇治の万福寺の資料によりますと、龍雲和尚は舞坂の人で、宝林寺を開いた独湛禅師の法孫にあたり、幼少の頃より出家の志あつく25才にして黄檗山へ登り剃髪、それより諸国行脚し、多年にわたり仏典を修む。惜しむべくは中風病にかかり半身かなわず50余才にして、故郷舞坂に帰る。宿民、師の道徳を喜び東奔西走一小庵を建立し、指月院と号す。時に正徳2年(1712)とあります。
 指月院はこのように黄檗宗の寺で、今の細江町初山宝林寺の末寺でしたが、明治の終り頃廃寺となりました。その後、昭和14年(1939)地元の人達により、元の境内の一隅に小堂が建立され、再び本尊などをお迎えして祀るようになりました。
 金比羅大権現 明治37年(1904)の文書には、舞坂は地方海岸にして漁師多く、常に金比羅山を祈念するは甚だ切なり。よって漁民協力して尊躰を四国より迎え来てここに祭る。信仰最も厚し。創立は江戸時代とあるが年代不詳。文久2年(1862)の絵図には境内に本堂・十王堂・金比羅堂が載っています。
なおこの堂の縁日(福の市)は旧暦の10月9日におこなわれます。
                舞坂町教育委員会
 
 I雁木跡
 
 ◆舞坂宿の渡船場・本雁木(がんげ)跡  武家用 「現地説明板」
  江戸時代、舞坂宿より新居宿までの交通は渡船であり、舞坂側の渡船場を雁木といった。雁木とは、階段状になっている渡船場のことをいい、本来は「がんぎ」と読むが舞坂では「がんげ」と言っている。ここは、東海道を旅する人が一番多く利用した本雁木跡で、東西15間、南北20間の石畳が往還より海面まで坂になって敷かれていた。
 また、ここより新居へ向かう船は、季節により多少変わるが、関所との関係で朝の一番方は、午前4時、夕方の最終船は午後4時であった。                                        舞坂町教育委員会
 
 ◆渡荷場跡(とうかば)  荷役・庶民用   「現地説明板」
   江戸時代、舞坂には3つの渡船場があり、ここはそのうち一番南側の渡船場跡で渡荷場といい、一般庶民の乗降にも利用したが、その名のように、主に東海道の輸送用荷物の積おろしをした場所である。これらの石垣も昭和25年(1950)から始まった漁港改築工事により姿を消したが、水神様はもとは30mくらい東の地点に鎮座していたが、漁港工事に伴いここに遷された。

 ◆渡船場 北雁木    大名・幕府公用役人用 「現地説明板」
 ここは、浜名湖今切渡しの舞坂側の渡船場跡で、明暦3年(1657)から寛文元年(1661)にかけて構築されました。その後、江戸時代には災害で幾度か修復されています。両側の石垣の白い部分は、昭和28年(1953)の台風で石垣が崩れたため、積み直したものです。
 雁木とは、階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では「がんげ」と昔から言っています。
舞坂宿には、三ヶ所の渡船場がありましたが、一番南側は主に荷物の積みおろしをした渡荷場。真ん中は一番多く利用した主要渡船場で、本雁木と呼ばれています。この北雁木は、主に大名や幕府公用役人が利用した所で、往還から幅10間(約18m)の石畳が水際まで敷き詰められています。
                    舞坂町教育委員会

 J那須田又七顕彰碑  北雁木筋向かい  「現地説明板」
  那須田家の先祖は、豊臣氏に仕えていましたが、大阪の役の後、舞坂で農業を営むようになりました。又七は、天明4年(1784)の生まれで、子供の時から聡明でした。勉学に励み、16才で舞坂宿問屋場の書記になりました。その後、村役人・宿役人を長く勤めました。産業振興に勤め、海苔養殖の基盤を作りました。飢饉の時には、私財を投じて救済事業を行いました。その人望と功績により名字帯刀を許され「袱紗刀爺」(ふくさがたのやや) と呼ばれました。嘉永3年(1850)66才でなくなりました。安政5年(1858)、その業績を永く伝えるために、顕彰碑が建立されました。
                 舞坂町教育委員会