(注)16,舞坂 「東海道名所図会」の記述 前坂とも書す。いにしえは舞沢、あるいは舞沢松原という。浜松まで二里三十町。南は大洋(おおうみ)にして、三州地より豆州(伊豆)下田まで海路七十五里。これを遠江灘という。荒井よりの渡船、舞坂に着岸す。 「光行紀行」(東関紀行、作者不詳) 「舞沢の原というところに来にけり。北南は渺々とはるかにして、西は海の渚ちかし。錦花繍草の類はいともみえず。白き沙(いさご)のみありて、雪のつもれるに似たり。その間に松たえだえ生いわたりて、汐風梢に音信(おとず)るゝ。またあやしの草の庵、所々に見ゆる。漁人釣客(ぎょじんちょうかく)などの栖(すみか)にやあるらん。末遠き野原なれば、つくづくと詠めゆくほどに、うち連れたる旅人のかたるを聞けば、いつの頃とはしらず、この原に木像の観音おわします。 御堂など朽ち荒れにけるにや、かりそめなる草の庵のうちに、雨露たまらず、年月を送るほどに、一年望むことありて、鎌倉へ下る筑紫人ありけり。この観音にお御前に参りたりけるが、もし本意とげて古郷(ふるさと)へむくわば、御堂を造るべきよし、心の中に申しおきたりける。鎌倉にて望むこと叶いけるにより、御堂を造りけるより、人多く参るなんとぞいうなる。聞きあえずその御堂へまいりたれば、不断香の匂い、風にさそわれてうち薫り、閼伽の花(あかのはな=仏前に供えた花)も露あざやかなり。願書とおぼしき物、戸張の紐に結び付けたれば、「弘誓」(ぐぜい=民衆救済のための仏菩薩の広大な誓願)の深きこと海のごとし」といえるも、たのもしくおぼえて たのもしないりえにたつるみをつくしふかきしるしのあると聞くにも 光行 ★「みおつくし」(澪標)…通行する船に通りやすい深い水脈を知らせるために立てた杭。歌で多く「身を尽し」にかけて使われる。みおぎ・みおじるし。 万葉集(14)「遠江引佐細江のみおつくし吾を頼めてあさましものを」 「新訂 東海道名所図会」(中) P181〜2 |