(1)金谷一里塚〜大池一里塚
1一里塚について

2各地の一里塚

(1)金谷〜大池
(2)久津部〜阿多古山
(3)宮之一色〜白須賀
(1)金谷一里塚  …※江戸より53里
 @静岡県歴史の道 東海道
  平成6年 静岡県教育委員会刊
   
  金谷一里塚  蓁原郡金谷町新町    
 ○延享3年(1746)「東海道巡覧記」によれば、「金谷一里塚榎」とある。     
 ○明治23年(1890)に東海道線が複線になると、一里塚周辺の用地は買収された。線路となった一里塚は村松貞一氏宅地内という。       
 (注)「東海道巡覧記」  
 
 A現地説明板      一里塚跡  金谷町新町    
  延享三年(1746)の「東海道巡覧記」によれば 「金谷一里塚榎木」とある。   
    里程  江戸へ五十三里       
    島田へ一里          日坂へ一里二十四町                                                            金谷宿    
  ◎金谷の一里塚は、南側に榎木と松、北側には松と桜があったという。
 ○「金谷宿一里塚跡」の道しるべ  現地説明板の隣  
 島田宿 宿境まで三十三町→【金谷町 金谷宿 一里塚跡】→日坂宿
      宿境まで一里ニ十町  
 ※旧東海道は、金谷宿を東進して、ここで左折しJR東海道線のガードを潜り、牧の原へ登っていくことになる。金谷駅・大井川鉄道金谷駅は東進して100m位の左側にある、

(2)佐夜鹿一里塚   
 @静岡県歴史の道 東海道
  平成6年 静岡県教育委員会刊
      
    佐夜鹿一里塚  掛川市日坂佐夜鹿字新屋  P219    
 ○江戸より五十六里の地。「小夜の中山」地内にあり、道をはさみ南北に松等が植えられた盛土であった。 北側は佐夜鹿鈴木正一氏宅地内となり、削平された塚の一部が残っている。南側は道より三間程入った竹薮の中で、石柱がその位置を示している。この石柱は大正期に日坂青年団が標示石柱として建てたもので、塚・盛土の痕跡は見当たらない。      ○ほとんどその跡が判るだけである。   
 A現地説明板       佐夜鹿(小夜の中山)一里塚      
 徳川家康(1542-1616)は慶長六年(1601)江戸と京都を結ぶ海 道に宿駅を設置しました。 その後、街道の並木の整備とともに一里塚が作られました。一里塚とは、江戸日本橋を基点にして一里(三十六町)ごとの里程を示す塚で、街道の両側に五間(約九メートル)四方の塚を築いて、その上に榎や松が植えられました。 ここ小夜の中山の一里塚は、慶長九年(1604)に作られました。日本橋からこの一里塚までの里数を示す設置当初の記録はありませんが、周辺の一里塚の古い言い伝えによる里数や当初の東海道のルートを考えて、五十六里目という説があります。 また、元禄三年(1690)の「東海道分間絵図」では、日本橋から日坂宿まで五十二里三十町ですので、この一里塚は五十二里に相当します。 天保十四年(1843)の「東海道宿村大概帳」では、日坂宿まで五十四里二十六町、小夜の中山までは五十四里ニ町ですので、この一里塚は五十四里に相当すると思われます。 東海道のルートは時代とともに若干の変更もありましたが、一里塚の位置が移動したという記録はありません。 いずれにせよ一里塚は、東海道を行き来する旅人などにとって、おおよその道程の目安になっていたと思われます。
※54里と55里が欠番。佐夜鹿一里塚の江戸からの距離は、元禄3年(1690)の「東海道分間絵図」では、52里、天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」では、54里と記されている。

(注)東海道分間絵図
(注)宿村大概帳

(3)伊達方一里塚  
 @静岡県歴史の道  東海道 
平成6年 静岡県教育委員会刊
   
     伊達方一里塚  掛川市伊達方  P223
○小夜の中山一里塚の次の一里塚に当たるもので、牛頭村、現在の掛川市伊達方に属する。北側の塚は字滑川、南側は一里山となる。江戸より五十七里の一里塚。
○左右とも全く存しない。「宿存大概帳」には、両塚榎が植えられていたとあるが、現在は何の痕跡も留めていない。近年宅地が進み、住宅に包み囲まれており、その一をめいかくに指示できない。    
 A現地説明版     
  一里塚は、慶長九年(1604)江戸幕府の命により築かれた。江戸日本橋から一里(約4km)ごとに塚が設けられ、松か榎を植えて目印とした。旅人にとっては夏は木陰、冬は風よけとして重宝がられた。また、一服できる休息の場でもあった。江戸日本橋から京都まで百二十五里(約五百km)。掛川市内には佐夜鹿・伊達方・葛川・大池の4ケ所にツ化は設けられていた。 ここ伊達方一路塚は、江戸より五十七番目の塚として、街道の両側に築かれ、南側は現・萩田理髪店東側あたり、北側は現・三浦たばこ店屋敷あたりに設けられていた。  当時、塚の大きさは直径七間、高さ三間の小山で、一里山と言われた。明治三十三年(1900)頃、取り壊されたという・

(4)葛川一里塚
 @静岡県歴史の道  東海道
 平成6年 静岡県教育委員会
   
  葛川一里塚  掛川市葛川      P224  
 ○日本橋より五十八里の地点にある一里塚。近世、橋西脇にあった。左右の塚とも松が植えられていたが、明治初年に伐採され、同時に塚も跡を留めない。 両側の一里塚跡と思われる地点は、現葛川公会堂付近に相当すると考えられ、北側は河川流路の変遷で不明。この川は前川、すなわち現在の逆川である。   
 ○近世の土橋より北側に逆川の改修にともない、鉄筋コンクリート橋が架かり、かつての面影は全くうせている。それにともなって、東海道の一部は全く跡をたどれない状態になっている。
 A現地説明板   なし   
  橋のたもとに、小さく土盛した上に「東海道 葛川一里塚」の石柱。  側面には「京都より六十九里一丁余」と記す。

(5)大池一里塚  
 @「静岡県歴史の道 東海道」
 平成6年  静岡県教育委員会刊
               大池一里塚  掛川市長谷             P228
 ○ 江戸より五十九里目の一里塚。北側は大池村地内。南側は長谷村 地内で、松が植えられていたという。松は両塚とも明治10年(1878)に伐採され宅地化されている。
 ○面影は全くない。
 A現地説明板  なし   
 









一乗山蓮祐寺(日蓮宗)前に、「掛川市 大池一里塚跡」のみちしるべ。  
   掛川宿 宿境まで二十二町→【掛川市 大池一里塚跡】→袋井宿    
   宿境まで一里二十六町  
※蓮祐寺門前にある「南無妙法蓮華経」と刻まれた石塔の裏に「昭和2 5年11月17日  為一里塚萬霊供養服部丹蔵建之」とある。