(2)久津部一里塚〜阿多古山一里塚
1一里塚について

2各地の一里塚

(1)金谷〜大池
(2)久津部〜阿多古山
(3)宮之一色〜白須賀
(6)久津部一里塚  
 @「静岡県 歴史の道」  平成6年
    静岡県教育委員会刊

 久津部一里塚 袋井市広岡  P231
 ○街道筋に一里ごとに設けられたものであるが、久津部の一里塚は、江戸より丁度六十里にあたる。
 ○ 一里塚があったあたりは、北側が現在「ツタヤ商店」南側が「袋 井小学校になっている。小学校正門東に一里塚に似せた土盛りが作られている。  
 A現地説明板   
 ○久津部一里塚 目じるしにした江戸時代の塚のことで、多くは榎(えのき)や松がそのが立っていました。現在は街道両側の塚とも残っていませんが、現在地付近がその跡と言われています。  昭和四七年には袋井小学校創立百年を記念して、一里塚碑が建 てられるなどして現在にいたっています。 ここに歴史を末永く後世に伝えるために新たな塚を設置しま した。           平成十二年八月改修       
               (平成四年十二月説明板設置)   
                                 袋井市教育委員会    
 ○袋井小学校創立百年記念        東海道久津部一里塚跡碑    
  徳川幕府は慶長九年(1604)二月(昭和四十七年より三百六十八 年前)東海・東山・北陸三道に一里塚を築かしめて旅人の便をはか った。当時本村久津部の地は、江戸より六十里の地点であったか ら、道をはさんで両側に高かく土を盛り松を植えて一里塚を築い た。その北側のものは袋井東小学校前の石川金平氏宅地で、国道 より三間ばかり北へ入ったところであった。南側にあったものは 現在地である。明治十年(1887)に伐るまでは老松がそびえていて 旅人のよい目じるしになっていたとのことであるが、袋井東小学 校創立百年を記念に復元をいたした次第である。         
         平成十二年八月改修  (昭和四十七年説明板設置)

(7)木原一里塚
 @「静岡県 歴史の道」  平成6年
    静岡県教育委員会刊

 木原一里塚  袋井市木原    P232
 ○久津部より西へ一つ目の一里塚。  
 ○江戸より六十一里。  
 ○現在、一里塚跡は街道の南北両側とも個人の住宅地になっている。 北は鈴木政平氏の庭。南は同亀太郎氏の土倉あたりという。
 A現地説明板       木原一里塚   
 木原一里塚は、江戸から数えて六十一里目の一里塚です。
  「東海道宿村大概帳」(逓信博物館蔵)には「(袋井)宿より見附迄之間壱里塚壱ケ所。壱ケ所、木立松。但、左右之塚共木原村地内」と記され、「東海道分間延絵図」(東京国立博物館蔵)や、「東海道分間絵図」(東京国立博物館蔵)などには、ツ化の上に松や榎が描かれています。本来の一里塚はこの場所から約60m東にありましたが、現存していません。一里塚は、一里(約4km)ごとに街道両側の土を盛り上げ、目印にした塚のことです。中国で榎と銅表を立てて里数を記した塚塊や奈良時代の国界の標識などが、その起源と考えられます。古くから里程については一里が六町や三九町、四八町、五〇町、六〇町などとさまざまでしたが、「本朝世事談綺」に天正年間(1573-92)織田信長(1534-82)が三六町ごとに一里塚を築き、榎をその塚の上に植えたと記しています。信長の跡を継いだ豊臣秀吉(1537-98)も新たに定めた度量衡の全国的普及を意図して、三六町を一里として、五間四方の一里塚を築造しています。それを受け継ぎ主要な街道はすべてに一里塚を整備したのは徳川家康です。 慶長九年(1604)家康は秀忠(1579-1632)に命じ、江戸日本橋を起 点として東海道・中山道に榎を植えた一里塚を築かせ全国に普及しました。榎を一里塚に採用したのは、榎の根が深く広がって塚を固め、ツ化を崩れにくくするためでしたが、この採用にあたっても家康伝説が伝わっています。また、榎の代わりに松などを植えていた地方もみられます。東海道の一里塚の築造に際しては、大久保長安(1545-1613)を総督として永井白元と本多光重が奉行となり、江戸町年寄の樽屋藤左衛門や奈良屋市右衛門らが請け負いました。
  一里塚は街道の両側に二つの塚が対として、松並木の背後や街道か らはやや離れた場所に築造され、旅人や駕籠・馬の乗り賃の支払いの 目安となりました。五間(約9m)四方の基壇の上に丸い塚をのせ、榎 などが植えられました。街道から塚までは小道がのび、日差しの強い 日には木陰を提供する休憩所ともなりました。しかし、18世紀後半 ごろから一里塚は荒廃してしまい、幕府も積極的な整備対策は講じま せんでした。明治時代以後は、鉄道の発達などにともなって、一里塚 の必要性も次第に失われてしまい、街道の拡幅整備などにともなって その姿を消していきました。   
 ※右側上に「東海道分間延絵図」 木原村部分  写真で示し、下方に英文の説明
            平成11年3月13日          袋井市教育委員会
(注)大久保長安・樽屋藤左衛門・奈良屋市右衛門

(8)阿多古山一里塚
 @「静岡県 歴史の道」  平成6年  静岡県教育委員会刊 
   阿多古山一里塚  磐田市富士見町   P236
左側 旧東海道 南側の一里塚(愛宕神社裏山)
北側の一里塚 阿多古山から見付宿を望む

 ○三本松から旧道坂道を下って、両側の高い所。天保年間(1830-44)には、すでに左は松が植えられ、榎はなくなっている。
 ○  愛宕神社裏の小高い所に雑草におおわれた林の中に、一里塚の石柱が建っている。椎の木がある。石段の下には一里塚の説明文 がある。富士見町山下繁雄方裏山の小高い所に雑木の大木があり。下に大正十五年に建てられた高さ一メートルの「一里塚」の石柱がある。大木は付近からよく眺められ、小高い丘もよく保存されている。  
 (補遺)    「同上」  P288    
 北側の雑木は、伐採され宅地造成された。昭和42年 に磐田市指定文化財に指定されている。
 A現地説明板  愛宕神社登り口階段の左側     
        一里塚址(旧東海道跡)    
 この一里塚は見付宿の東はずれに位置し、街道の両側に築かれ 阿多古山一里塚と呼ばれている。 一里塚は徳川幕府が主要街道の整備を行い、三六町を一里とし て街道の両側を五間四方の一里塚を築き、塚上に目印として榎を 植えたものである。この一里塚は慶長九年(1604)永田勝左衛門重が道中奉行の時に 築かれたものと推定され、江戸から六十二里にあたる。           
  (一里塚は、この階段の上にあります)