1一里塚について | |
1一里塚について 2各地の一里塚 (1)金谷〜大池 (2)久津部〜阿多古山 (3)宮之一色〜白須賀 |
(1)意味 主要街道の両側に一里(36町=約4km)ごとに、目印として築か れた塚 (2)起源 その起源は古代中国にあり、日本では高野山の町石や藤原清衡(1056〜1128)の立てた「笠塔婆」をはじめ、戦国時代の織田信長(1534〜82)や豊臣秀吉(1536〜98)の設置した塚がある。 しかし、制度として確立したのは近世で、慶長9年(1604)徳川家康(1542〜1616)が、二代将軍徳川秀忠(1579〜1632)に命じ、日本橋を起点として、東海・東山・北陸の3街道に1里ごとに5間(約9m)四方の塚を築かせ、塚の上には、榎や松を植え、旅行者に便宜を与えた。東海道・東山道は永井白元・本多光重が北陸道は山本重蔵・米田正勝が奉行となり、江戸町年寄樽屋藤左衛門・奈良屋市右衛門らがこれに属し、大久保長安(1545〜1613)が統治した。 (3)目的 旅の目安となったが、度量衡統一の目的もあった。 (4)廃止 明治以後、里程標の設置、道路の改修、交通機関の発達により次第に失われていった。 (5)その他 @当時の一里 五街道では36町と定められた。脇街道(脇往還)では、49町、50町と地方により様々であった。 A何故榎を植えたのか? ○豊臣秀吉が「余の木」にしろといったのを聞き間違えたとする説。 ○徳川家康・家光が「松」を「余の木」にしろといったのを聞き間違えたとする説。 B榎(えのき) ニレ科の落葉高木。暖地の丘陵上に生える。高さ20m、樹皮は灰色。葉は卵形で互生。春に淡黄色の細かい花が咲き、秋には球形の橙色に熟し食用になる。 榎は全国にあり、成長が早く根が深く張り、土盛りを崩さず、夏は葉が茂り人々が涼をとるに便であった。 |