(3)宮之一色一里塚〜白須賀一里塚 | |
1一里塚について 2各地の一里塚 (1)金谷〜大池 (2)久津部〜阿多古山 (3)宮之一色〜白須賀 |
(9)宮之一色一里塚 @「静岡県 歴史の道」 平成6年 静岡県教育委員会刊 「宮の一色一里塚」 磐田郡豊田町宮の一色 P242 ○「大概帳」によれば「此宿(見付宿)より浜松宿之間一里塚三ヶ 所、一ヶ所榎、但左之塚は下万能村地内、右之塚は宮之一色村地 内」とある。 ○昭和46年(1971)北側に豊田村(当時)教育委員会で塚をつくり一 里塚の碑を建てた。それまで、円形の田が残っていたが埋め立て られた。現在塚の隣に一里塚茶屋が営業。南側は会社の建物があ る。工場左(東側)に松を植え一里塚の碑を建てた。土地の人の話 では数年前のことである。江戸より六三番目。 A現地説明板 一里塚左側に設置(カラーの説明版) 宮の一色一里塚 「東海道宮の一色一里塚」 江戸時代になると、東海道や中山道などの街道が整備され、こ れにより多くの人々が安全に旅することができるようになり、荷 物も多く、早く届けられるようになりました。 一里塚は、旅人に距離を知らせるために一里(約4キロ)ごとに、 街道をはさんで両側に一基づつ作られました。一里塚の上には榎 や松などが植えられ、その木陰は多くの旅人の休憩する場所とな りました。また、かごや荷物を運ぶ料金の目安としても利用され たようです。ここ宮の一色一里塚は、東海道の起点である江戸(東 京都)日本橋から数えて63番目の一里塚です。現在に一里塚は昭 和46年(1971)に復元されたものです。 当時は、西に「間の宿」といわれた池田宿と天竜川の渡船場を、 東に見付宿をひかえて、さぞ多くの旅人や荷物が行き交ったこと でしょう。一里塚の西に点在する松並木がその名残を今に伝えて います。 ※説明文の右に、「旅人の様子を描いた図」下には「東海道と歴史の道」が描かれているが省略。 B現地説明板 南側 「東海道一里塚跡」 豊田町宮之一色 一里塚は、今から四〇〇年前(一六〇四)に、江戸幕府により、江戸(今の東京都)日本橋を起点として、一里(約四キロ)ごとに、東海道(今の国道1号線)の両側におかれたものです。一里塚は、旅人がどのくらい歩いたかを教えてくれたり、かごなどに乗った時の運賃の目安になりました。 (10)安間一里塚 @「静岡県 歴史の道」 平成6年 静岡県教育委員会刊 「安間一里塚」 浜松市安新町79・92−1 P249 ○ 江戸日本橋より六四里目の一里塚で、長上郡安間新田(安新町)地 内の東海道の左右に設置されていた。この塚は本坂通の一里塚も兼ね、本坂通(通称姫街道)は、ここから分岐していた。「大概帳」によると「左右之塚共安間新田地内 木立左松・右榎」とある。 ○南側の塚は安新町79金原昌弘氏宅辺り、北側の塚は安新町92 −1原田昭氏宅辺りだ が、ともに原形はない。 A現地説明板 なし 「旧東海道」の木柱の背後の金網越しに「一里塚跡」の木柱。 (11)向宿一里塚 @「静岡県 歴史の道」 平成6年 静岡県教育委員会刊 「馬込一里塚」 浜松市相生町422・143付近 P251 ○江戸日本橋より六五里目にあたる一里塚。「大概帳」によると左右の塚ともに敷智郡向宿村地内にあり、木立は、左松、右榎と記されている。 「東海道分間延絵図」や「浜松城下絵図」にも馬込橋より東200メートル辺りの東海道の両側に一里塚の絵が描かれている。 ○向宿村は現在数ヶ町に分かれているが、一里塚のあったのはいまの相生町地内の東海道の両側。しかし遺構はなく、商店が立ち並んでいる。位置は浜松東警察署の西50メートル付近である。 A現地説明板 木柱に記す。昭和61年 浜松市教育委員会建立 「東海道馬込一里塚跡」 江戸日本橋より六十五里(約260km)の所。道の両側に五間(約9m)四方の土を盛り上げて松・榎などを植え、旅人の目標とした。 「馬込一里塚」の名称は「静岡県史跡名勝天然記念物調査報告書」より引用した。史料に依りては」とも「向宿一里塚いう。この辺り、中世「宇間(うまの)郷(ごう)」と呼び、江戸期に至り向宿村。現在は浜松市相生町と云ふ。 昭和61年文化の日 浜松市教育委員会 相生町自治会 ・文化財調査会 (12)若林一里塚 @「静岡県 歴史の道」 平成6年 静岡県教育委員会刊 「若林一里塚」 浜松市東若林町1,301・1,141 P261 ○日本橋より66里目の一里塚。「浜松宿本陣杉浦家旧蔵絵図」および、嘉永3年(1850)の「浜松城下絵図」等に記載が見られるが、「宿村大概帳」には「東若林一里塚」は記されていない。しかし、存在したことは確かである。 ○ 塚は現存していない。道幅を拡張したため、左右の塚とも道路識の一部にかかっている。左側(東側)に教育委員会が建てた史跡の標識と「一里塚跡」の碑【昭和53年(1928)8月建立】がある。 A現地説明板 民家の前 慶長6年辛(かのと)丑(うし)正月(1601)徳川家康(1542-1616)は、東海道に駅伝馬の制を定め、江戸より京都まで五十三里の宿場を設けました。同9年(1604)幕府は一里毎に五間(約9b)四方の小高い塚を道の両側に築いて榎を植えさせました。 ここは、江戸より六十六里、昔は土手のある松並木が続いて(八丁畷)、榎は街道を行く旅人の道標(みちしるべ)でした。 付記 大正十一年(1922)「静岡県史蹟調査記録」に 南側九番地畑 渡辺有歳昔一抱榎ありしと 北側七番地宅 山口半兵衛昔榎ありしと。 昭和53年(1978)8月 可美村教育委員会 可美村文化財保護新義委員会 (13)篠原一里塚 @「静岡県 歴史の道」 平成6年 静岡県教育委員会刊 「篠原一里塚」 浜松市篠原町3,916 P264 ○江戸日本橋より六七里目に当る一里塚。「宿村大概帳」には「左右之塚共篠原地内 木立左松 右榎」とある。「東海道分間延絵図」によると、道を挟んで左右之塚が相対しており、塚の上の木が大きな枝をひろげている様子が描かれている。 ○左右の塚共に原形を止めていない。篠原町の鈴木孝一氏宅は通称「一里山」の屋号をもって呼ばれている。 A現地説明板 「篠原一里塚跡」 浜松市篠原町 (日本橋より六十七里) 徳川幕府は、慶長九年(1604)東海・中山・北陸の三街道に、(五 間四方)の一里塚を築くことを諸大名に命じました。 江戸日本橋を起点とし、一里(三十六町・約四キロ)ごとに、街 道の両側に一里塚が築かれました。「東海道宿村大概帳」に「一里 塚 木立左松右榎 左右之塚共篠原地内」と記されています。(左 側とは南、右側とは北を指す) 当時の旅人は、一日十里(約四十キロ)を歩くのが普通であった といわれ 浜松市 広報課・篠原町 東自治会 (14)舞阪一里塚 @「静岡県 歴史の道」 平成6年 静岡県教育委員会刊 「舞阪一里塚」 浜名郡舞阪町舞阪2,664 P267 ○江戸日本橋より六八里目の一里塚。「宿村大概帳」によると「左右之塚共舞阪宿入口木立左右共松」とある。文久二年(1862)「宿内絵図」によると、往還をはさんで左右が相対して位置しており、南側の「一里塚」横に「秋葉山常燈明」があったことが判る。 ○北側の一里塚は、民家の裏庭に塚の残存部がわずかに認められる。南側の塚はほとんど土盛が残っていないが、塚の跡地は史跡として保存管理され、史跡碑と標識板が建てられている。 ○昭和47年(1973)4月11日、舞阪町指定史跡指定 A現地説明板 「一里塚跡」 江戸幕府が日本橋を起点にして街道に一里塚を築かせたのは慶長9年(1604)とされる。天保年間(1830-44)の「宿村大概帳」には舞阪宿は江戸より67里16町に位置しており、ここの一里塚は左右の木立共松と書かれている。しかし、古老の話では、大正時代(1912-26)まで一抱え半もある大きな榎の木が枝を四方に繁らせていたというから、幕末の頃には榎木が植わっていたと解釈してよいだろう。 なお北側の一里塚は、土地台帳に町有地としてわずかに名残を留めているのみである。 舞阪町教育委員会 (15)新居一里塚 @「静岡県 歴史の道」 平成6年 静岡県教育委員会刊 「新居一里塚」 東-浜名郡新居町新居1,717 P275 西-浜名郡新居町新居1,677 ○江戸日本橋より六九里にあたる。「宿村大概帳」には左・榎右松と記載されている。左(東)・右(西)とも間口三間、奥行き八間であった。 ○一里塚は明治の初めごろに取り払われ、現在では東西ともに宅地となり、一里塚のおもかげなし。東の一里塚跡地に「一里塚」の石碑が建つ。 A現地説明板 「一里塚跡」 一里塚は、江戸の日本橋を起点として街道の一里(4キロメートル)ごとに土を盛り、その上にエノキなどを植えた里程(りてい)のしるし。 旅行者にとっては、馬や駕籠代の計算などの目安となった。慶長九年(1604)二代将軍秀忠(1579-1632)が、一里塚を築かせたといわれ東海道では104ヶ所あった。ここには、左(東)にエノキ、右(西)に松が植えてあった。 新居町教育委員会 (16)白須賀一里塚 @「静岡県歴史の道 東海道」 平成6年 静岡県教育委員会刊 「白須賀一里塚」 北 湖西市白須賀477-2 P278-9 南 湖西市白須賀552 ○江戸日本橋より七〇里にあたる。「宿村大概帳」には木立松、左右の塚共白須賀地内とあり、「白須賀宿内町並家数畳数取調書上帳」(元治元年=1864)によれば、北側の一里塚の間口は七間であったという。 ○「遠江国一里塚」では、明治十年(1877)頃まで松が存在したと記載。現在、一里塚跡地は宅地となっており、北側の一里塚跡地に「一里塚」と記した小さな石碑が建つのみ。 A現地説明板 「一里塚跡」 一里塚は、徳川家康(1542-1616)が最初に手掛けた、東海道の整備事業のときに設けられたものです。慶長九年(1604)から江戸日本橋を起点に一里(約四キロメートル)ごとにつくられました。塚は旅人の目印のためにつくられたもので、街道の両側に高さ二メートルほどの盛土をし、榎・しい・松などが植えられました。この辺りでは、一里塚のことを「一里山」と呼んでおり、石碑にも「一里山旧址」と彫られています。 |