3 鷲栖院から立場跡 | |
東海道・新居宿 1 JR新居駅周辺 @種田山頭火の句碑 A大元屋敷 B中屋敷 C堂塔の松 2 新居関所とその周辺 @新居宿概要 A新居関所 B紀伊国屋 C本陣 D寄馬跡 3 鷲栖院から立場跡 @鷲栖院 A一里塚跡 B棒鼻跡 C教恩寺 D風炉の井 E紅葉寺 F松並木と為家・阿仏尼の歌碑 G立場跡 ※参考にした本等 |
@鷲栖院(じゅせいいん) ◆佐橋甚兵衛の墓 「現地説明板」 佐橋甚兵衛吉次は、今切関所が幕府直轄時代の正保4年(1647)から明暦3年(1657)まで、第6代・7代の関所奉行だった人。禄高1270石を知行し、橋本村に屋敷を構えていた。明暦3年74歳で没し、自ら開基となった祐念寺に葬られたが、のちにここ鷲栖院に移された。 平成4年3月 新居町教育委員会 (注)6、佐橋甚兵衛の墓 (注)7,祐念寺跡と源太山 A一里塚跡‥‥江戸より69里 寄馬跡の先右側 一里塚は江戸の日本橋を基点として街道の一里ごとに、土を盛りその上に榎(えのき)などを植えた里程のしるし。旅行者にとっては馬や駕籠代などの計算などの目安となった。慶長9年(1604)二代将軍秀忠(1579〜1632)が一里塚を築かせたといわれ、東海道では104箇所あった。こゝは左(東)にエノキ、右(西)に松が植えてあった。 B棒鼻跡‥旧東海道を左折してすぐ右側(石標と案内板) 棒鼻とは駕籠の棒先の意味。ここは新居宿の西境。一 度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て枡形(ますがた)をなしていた。大名行列が宿場へ入るとき先頭を棒先で整えたのでこの場所を棒鼻と呼ぶようになったといわれる。」 (注)8.棒鼻 C教恩寺 源頼朝に寵愛された遊女が、頼朝没後に尼となり、妙相と号して、建てた寺院。1300年創建の古刹。楼門は江戸期のもの。 ◆教恩寺の見返り松 「新居町 史跡めぐり」P61 江戸時代、新居宿であった橋本村を縦断した東海道筋にある教恩寺には、町指定のイチョウの他に、余りの見事さに旅人が振り返る=見返るほどに名付けられた「教恩寺見返りの松」が山門真北にあった。惜しいことに昭和53年(1978) 10月松くい虫の為枯死した.。樹齢凡そ350年であった。 ◆教恩寺のイチョウ 「新居町 史跡めぐり」P43 根回り5m,目通4,3m、樹高17,5m、枝張15,5m。昔橋本村の3人々が困った場合、このイチョウの根元に埋蔵した小判を掘って救えという伝説を残す由緒ある木である。 昭和54年3月12日 町指定天然記念物 ※枯死したため、現在は切り倒した樹の一部が記念に残されている。 ◆教恩寺住職・河野一祐和尚の記念碑 畳表には藺草(いぐさ)が使われるが、生産量の2割弱が不良品となってしまうが、明治16年(1883)住職は、使えない藺草を用いて、「蚕網」(かいこあみ)にすることを考案した。蚕網というのは蚕が繭をつくるときの「繭床」(まゆどこ)となるもので、製糸業の活況につれ蚕網の製造は農家に多大な現金収入をもたらした。その功績をたたえるために教恩寺境内に記念碑が建てられた。 「歴史100選 新居ものがたり」 P134〜5 D風炉の井 新居町指定史跡 「現地説明板」 尾崎家所有地内にあるこの石積井戸は、深さ2m、口径は最大1、8mあり昔はもっと深かった。建久元年(1190)源頼朝(1147〜99)が上洛のおり、橋本宿に宿泊した時この水を茶の湯に用いたと伝えられる。「風炉」と呼ばれる意味はよくわからない。昭和54年に町の史跡に指定した。 平成4年3月 新居町教育委員会 ※教恩寺と道を隔てた向かい側、小道を入ったところ。橋本長者の屋敷跡。 (注)9.風炉 (注)10.長者塚 E紅葉寺(もみじでら) 「新居町 史跡めぐり」 P33 俗称で紅葉寺といわれている寺の創設年代、及びその頃の正式寺名は不祥。足利義教(よしのり=1394〜1441)が富士下向の際、立ち寄って紅葉をめでたという伝説があるが、これらはいずれも裏付史料は殆どない。寛政9年(1796)「遠江國浜名橋記」B半之丞著(新居町史資料編2)、文政6年(1823)「浜名橋考」飯田武兵衛昌秀著(資料編2)の中に若干関連事項がある。この中に「富士御覧記」が引用され「(前略)此紀行の時、足利義教公橋本の寺に入らせ給いて、風景を愛し紅葉を賞し給いしより紅葉寺と云う寺あり、其の 後頽廃せしを本覚という僧再建して今は「本覚寺」という」この寺に3基の位牌がある。六代足利義教公、九代義尚公(よしひさ=1465〜89)、1基は上の方が焼けていて読めない。東の駿阿弥ヶ谷(すんなみや)に庵があったが、焼けて位牌を運び込んだらしい。この庵が紅葉寺であったかもしれない。 F松並木と為家・阿仏尼の歌碑 ◆松並木‥‥現地説明板 「旧東海道の松並木 この街道は昔より東海道として(大正時代よりは国道一号線として)、最重要な道路で、江戸時代初期の幕府により、大倉戸橋本にかけて松が植えられた。松並木は昭和50年頃まで通行人によい風情を与えていたが、全国的に松くい虫が発生し、当町でも4万5千本が枯れ、この街道の松も全滅したので、昔の面影を再現すべく昭和62年に静岡グリーンバンク事業により、植栽復原された。 ※旧東海道の松並木 「あらい 文化財めぐり」 P39 江戸時代、新居の東海道は隣の白須賀宿まで1里24町(約7km)あり、街道の松並木は新居宿にはなく、橋本村内で約1km、大倉戸村で約300mであったという。戦前までは、橋本から大倉戸にかけて一部その面影を残していたが、現在では殆ど往時の姿を偲ぶことはできない。 ◆為家・阿仏尼の歌碑 松並木の途中南側 「現地説明板」 ◎風わたる浜名の橋の夕しおほに さされてのぼるあまの釣舟 前大納言為家 ◎わがためや浪もたかしの浜ならん 袖の湊の 浪はやすまで 阿仏尼 (注)11.藤原為家と阿仏尼 G大倉戸の立場跡‥松並木が切れ、太い槇の木が並んだ道端に立場跡の標 識 大倉戸東入口付近 現地説明板 「立場跡 旅人が休息する施設を立場といって、江戸時代、東海道の各所に設けられた。ここは新居宿と白須賀宿の中間にある立場で、代々加藤家が務めてきた。立場では旅人を見ると湯茶をすすめたので、ある殿様が「立場、立場と水飲め飲めと鮒(ふな)や金魚であるまいに」という戯(ざ)れ歌を詠んだという話が残っている。 (注)12。立場 |