(注)10、長者塚  「あらい 昔かたり」 P17
 旧橋本宿の南はずれの長者屋敷の跡と呼ばれるあたりに、三つの土盛りがある。現在の上下神社の東側で、日ヶ崎の渡辺さん方の裏手、村櫛さん方横、そして荻野定利さん方横である。
 その昔、橋本は「浜名の橋」の西の宿駅として、鎌倉時代には非常に繁栄した所といわれ、「東鏡(あずまかがみ)・遠湖記」にも、
     橋本の君にはなにか渡すべき      梶原景時
      たゞ杣(そま)川のくれてすぎばや  右大将 源 頼朝
     東路(あずまじ)をこえて浜名の橋本の
      君と契(ちぎ)らん花の香の町    読み人知らず
 と、なかなかロマンを感じさせた所であったらしい。その橋本宿の長者・蔭山三郎左衛門の屋敷あたりは現在「長屋敷」(ながやしき)の地名が残り、そこにある三つの塚は「長者塚」と呼ばれている。
 土地の古老の話によれば、畑の中の塚は現在よりも土盛りが高く、ススキや彼岸花が生い繁っていたとのことで、遠い昔をしのばせる情景であったろうが、今はどの塚も周辺を建物に囲まれつつある。
 長者塚というからには、昨今の発掘ブームからして少なからず興味をそそられる塚ではあるが、この塚に触れようものなら直ちにオコリ(熱病の一種。今のマラリアという)を患うと、古くから言い伝えられているため、誰も手を付ける物がいない。
 現在は三つの塚のうち、西二つの塚の砂を一握りづつ一番東の荻のさん方に運んで合祀し、毎年一回、隣家全部で炊き出しうぃおして、お施餓鬼(せがき)をしている。塚に植えてある青木の根本に三本の卒塔婆が立てられ、花が捧げられている。