1 JR新居駅周辺 | |
東海道・新居宿 1 JR新居駅周辺 @種田山頭火の句碑 A大元屋敷 B中屋敷 C堂塔の松 2 新居関所とその周辺 @新居宿概要 A新居関所 B紀伊国屋 C本陣 D寄馬跡 3 鷲栖院から立場跡 @鷲栖院 A一里塚跡 B棒鼻跡 C教恩寺 D風炉の井 E紅葉寺 F松並木と為家・阿仏尼の歌碑 G立場跡 ※参考にした本等 |
@種田山頭火の句碑‥新居駅西方100m緑地帯(小公園) 「水のまんなかの道がまっすぐ」 昭和14年、 「現地説明板」 浜名街道 「水のまんなかの道がまっすぐ」 山頭火 種田山頭火(たねださんとうか=1882〜1940)大正・昭和の初期の俳人。明治15年(1882)山口県に生まれる。本名正一。荻原井泉水(おぎわらせいせんすい=1884〜1976)に師事。俳誌「層雲」に俳句を発表。大正13年(1924)仏門に入る。尾崎放哉(おざきほうさい=1885〜1926)に傾倒、養子を捨て庵を結び、一笠一杖の乞食行脚で各地を遍歴、禅味ある自由律の独自の句を残した。この作品は、二度目の遠州路を旅した昭和14年(1939)4月、当時の浜名街道を直截(ちょくさい=直接)に詠んだものである。句集「草木塔」に所載(しょさい=書き載せてあること)。 ◎山頭火の自由律俳句 「分け入っても分け入っても青い山」 「うしろすがたのしぐれてゆくか」 ※自由律 短歌または俳句の一様式。在来の31字または17字の形式を破ったもの。短歌では前田夕暮、俳句では河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)・荻原井泉水らが提唱した 「広辞苑」。 (注)1,種田山頭火と河東碧梧桐 (注)2、荻原井泉水・尾崎放哉・前田夕暮 A大元屋敷…新居駅南東約1km 道路に面して冠木門(かぶきもん)。中は小公園。井上通女の歌碑。 新居関所は、はじめ現在の関所より東南約1,5kmの「大元屋敷」にあった。ここは浜名湖に半島状に出ていた突端の港町であった。 「現地説明板」 江戸初期に作られた今切関所と新居宿は、元禄12年(1699)の災害で、「中屋敷」(現在の新居高校付近の籐十郎山)へ移転するまで、この地にあり「大元屋敷」といった。当時は東の端に関所があり、その西側へ一本筋の町並みで、城町(泉町)・中町・西町と続き、西町の入口が「枡形」(ますがた)になっていた。 中屋敷に移転後の関所と宿場は、宝永4年(1707)の大地震で倒壊し、今の場所に移った。 新居町教育委員会 ※現在は、東方の湖水面が埋め立てられて居るので、関所は湖水よりはるかに離れている。 ◆井上通女の歌碑 「現地説明板」 「旅衣あら井の関を越えかねて 袖によるなみ身をうらみつつ」 井上通女(1660〜1736) 江戸時代前・中期の歌人で、讃岐丸亀生まれ。幼少から和漢の学に通じ、若くして江戸藩邸に侍女として出仕し、多くの文人と交わり、文名を高めた。 著書に「東海紀行」「江戸日記」「帰家日記」などがある。 この歌は今切関所で、手形に「小女」と記すべきところを「女」とだけあったため、通行を拒否され時の心情を詠んだ歌で「東海紀行」に収められている。 新居町教育委員会 ※小女(こおんな)…年若い女。 ※女(おんな)…成年女子。成熟して性的特徴が現れた女性。 (注)3、井上通女 B中屋敷 「現地説明板」はあるが、判読できない このあたりは、昔籐十郎山と呼ばれ、大元屋敷にあった関所が、元禄12年( 1699)この地に移転した。 元禄15年(1702)幕府は、幕府直轄の関所奉行から、三河吉田藩に移管し、新居宿も吉田藩領となった。宝永4年(1707)10月の宝永地震により大被害 を受け、現在の関所に移転するまでの約8年間関所があった。 C堂塔(とうと)の松 新居高校の北側の小路を入る ◆古い「現地説明板」 江戸時代の地図には、このあたりは「トウトノハナ」と記されているが、「唐土 の鼻」と記入してあるものもある。「鼻」とは、小さな岬の意味である。この松は凡そ300年を経過すると推定される。宝永4年(1707)の地震災害で新居宿が「中屋敷」(新居高校付近=籐十郎山)から現在の関所所在地に移転してからも、新居と舞坂のかっこうの航路標識であった。 「トウト」の意味は不明である。昭和54年(1979)新居町の史跡に指定した。 新居町教育委員会 ◆新しい「現地説明板」 平成12年(2000)2月、松くい虫のため、伐採された新居町指定史跡「堂塔 の松」は、松を愛する多くの皆様からの募金により、平成13年(2001)3月10 日、記念植樹式が行われ、2代目「堂塔の松」としてよみがえりました。 21世紀の道しるべとして、大きく成長する事を願っている。 堂塔の松保存世話人会 |