(注)1,種田山頭火と河東碧梧桐 @種田山頭火(明治15=1882〜昭和15=1940) 山口県生。富裕な地主の長男として現在の防府市(ほうふし)に生まれた。11歳の時、父の遊蕩(ゆうとう=しまりなく遊びふけること。酒色にふけり身持ちの悪いこと)に絶望した母は井戸に身を投じ、山頭火は衝撃をうける。弟も後に自ら命を絶つ。後年の彼が酒におぼれ、放浪し続けたのも、それらに起因する死への恐怖や、死への傾斜から逃れるためであったと考えられる。 明治35年(1902)に早大文科に進むが、健康にすぐれず、2年で中退・帰郷する。結婚後、酒造業を始めた。一方、自由律派の荻原井泉水が創刊した句誌「層雲」に投句し、やがて井泉水の直接指導を受けた。大正5年(1916)事業は失敗し破産した。熊本に移ったが、妻子を顧みず酒におぼれる日々を過ごす。その後も、弟の死、離婚、父の死という不運に見舞われ、自身も神経衰弱に悩み、人生の無常を痛切に感じていく。 泥酔して市電を止める事故を起こしたのを機に、大正14年(1925)熊本の曹洞宗報恩寺で出家得度(とくど=剃髪して仏門に入ること。=出家に同じ)。同県の観音堂の堂守(堂の番人)となる。翌年「解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転(ぎょうこつるてん=托鉢しながらさあちこち目的なく歩くこと)の旅に出た。施しを受けて宿代をやっと得る日々の中でも、酒を捨てることは出来なかった。山口県小郡(おごおり)に廃屋を其中庵(ごちゅうあん)と名付けて約7年間住むが、その間も流転・放浪はやまず、「自然を愛し、旅と酒と句作に生きた」昭和15年松山市で泥水の果てに没した。自選句集「草木塔」を昭和15年、死の直前に刊行された。第一句集「鉢の子」(昭和7年)以降の七つの句集をまとめ、700余句を収める。 「最新国語便覧」P274 A河東碧梧桐(明治6年=1873〜1973=昭和12年) 愛媛県生。父は旧松山藩士で、正岡子規(1867〜1902)の漢文の師であった。中学で同級の高浜虚子(1874〜1959)と行動を共にしつつ、子規門下生の双璧として活動した。子規没後は新聞「日本」の俳句欄を受け継いだ。しかし、写実的・現実的傾向が強く、自作「温泉百句」を巡って論争を展開するなど、次第に虚子との対立を深めた。そして、虚子の伝統美重視とは対照的に個性的実感や印象を尊重して季題趣味・定型に縛られない新傾向運動を興す。明治39年(1906)以降は、その推進のために全国を行脚した。その時の旅中句を含めた紀行文が「三千里」(明治43)「続三千里」(大正3)である。大正5年以降は無季の自由律俳句に進む。その後も鋭い感受性を武器に俳句の可能性を追究、様々な試みを展開した。また、それに応じて所属句誌も変転した。晩年は俳壇を引退して与謝蕪村(よさぶそん=1716〜83)の建久や回想記に執筆に専念した。他に「新傾向句集」(大正4)俳論集「新傾向句の研究」などがある。 「春寒し水田(みずた)の上の根なし雲」 「赤い椿と白い椿と落ちにけり」 「この道の富士になり行く芒(すすき)かな」 「最新国語便覧」 P273 |