2 火鎮神社〜おんやど白須賀 | |
東海道・白須賀宿 1 白須賀宿概要 (1)宿内人別 (2)宿内惣家数 (3)宿場の長さ (4)白須賀宿について (5)白須賀宿を襲った津波 2 火鎮神社〜おんやど白須賀 (1)火鎮神社 (2)元町の一里塚・高札場跡 (3)蔵法寺 (4)潮見坂 (5)潮見坂公園跡 (6)おんやど白須賀 3 潮見坂上石碑群〜火防樹 (1)潮見坂上石碑群 (2)十王堂 (3)曲尺手 (4)夏目甕麿邸跡 (5)庚申堂 (6)火防樹 ※参考にした本等 |
(1)火鎮神社〜おんやど白須賀 (1)火鎮(ほずめ)神社 「現地説明板」 神社由緒書 ・鎮座地 湖西市白須賀5942番地 ・御祭神 火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ) 品陀和気命(ほんだわけのみこと) 徳川家康公 ・例祭日 十月十四日 ・由 緒 本神社は三座を祀り、由緒正しき神社なりしが、応永年間(1394 〜1428)海瀟及安永年間(1772〜81)社家火災の為め、古文書散失し、由 緒を詳に能はざるも、徳川家康の崇敬厚く、除地壱町四方余、丸太船壱双の 御墨付きを賜り、地方一般の崇敬を蒐めて、御隆盛を極む。大正十四年一月 九日村社に列せられ同年同月十四日神饌幣帛料供進社に指定せらる。 (2)元町の一里塚跡と高札場跡 @一里塚跡「現地説明板」 江戸から数えて76番目 「一里塚は徳川家康が最初に手掛けた東海道の整 備事業のときに設けられたものです。慶長9年(1604)から江戸日本橋を基点に一里(約4km)ごとにつくられました。塚は旅人の目印のためにつくられたもので、街道の両側に高さ2mほどの盛り土をし榎・椎・松などが植えられました。此辺りでは一里塚のことを「一里山」と呼んでおりま、石碑にも「一里山旧址」と彫られています。 A高札場跡‥‥現地説明板 「幕府・大名が法令や禁令・通達を板札に墨書した高札を掲示した場所を高札建場または単に建場といい、宿場・問屋場など人の目につきやすい場所に設置されまました。白須賀宿にはここ元宿と東長谷に一箇所ずつ設置されたほか「加宿」である境宿村にも一箇所設置されていました。 ※加宿‥‥江戸時代人家少なく。人馬を出しにくい宿駅に地続きの隣村をこれに加えて、宿駅の用を弁じさせたもの。 (3)蔵法寺(曹洞宗) @曹洞宗龍谷山蔵法寺 縁起 「現地説明板」 当山の前身の寺が建立され、西暦七百九十年頃(奈良時代末から平安時代)と言われ、現在の蔵法寺は1598年(慶長3年)開山琢翁宗a和尚により、曹洞宗の寺として開かれた。以来法灯の絶えることなく現在に至っております。江戸時代、徳川家康公の御朱印状に「蔵法寺寺領之事」として、御朱印地二十三石下賜の書がしたためられ、その日付は慶長八年(1603)九月十九日と明記されており、将軍家御小休所の指定を受けています。 是により将軍家御代替わりの都度、新しい御朱印状の書き替えのため、蔵法寺の和尚は江戸へ往復し、このため一ヶ月余の江戸滞在を必要とし本郷一丁目の松野屋豊蔵方が定宿となっていました。この時、和尚が乗る御駕篭が現存するが、「黄の御駕」と言われ、その行列は十万石の格式を備えた威厳のあるものでありました。 合掌 A「潮見観音縁起」 「現地説明板」 「承応三年(1654)三月十日当蔵法寺前の、遠州灘の海中より漁師の網にかかって恩出現された観音様で、お丈は一尺九寸(57,6cm)でその後堂内に安置され、毎年供養されて参りました。宝永4年(1707)十月四日遠州灘一円に大地震があり、その時起きた大津波に一瞬にして元町宿は悉く浪に呑まれ大被害を受けました。そのとき坂の上に逃れて、その地に現在も住んでいる子孫も多く居ります。その前夜徳川幕府参勤交代で岡山藩城主池田綱政公当地本陣に宿泊中で、夜半観音様が夢枕にお立ちになり、「この地に大地震あり、早々に立ち去れ」とお告げがありましたので、夜半急ぎ一行は本陣を出立し危うく難を免れることが出来ました。綱政公は観音様のご加護に感謝し邸内に潮見観音の御分身を祀り、子々孫々現在の池田牧場まで続いております。又、同地の長泉寺にも白須賀観音として、御分身が祀られて居ります。 大祭 一月十日 八月十日 月並祭 毎月十日 海上守護 交通安全 厄除け その霊験は昔から尊ばれております 当山主 敬白 B蔵法寺の本尊 地蔵菩薩…慶長以前の真言宗寺院であった頃から受け継がれている。 C潮見観音(聖観音) 御丈1尺9寸(71cm)の木像。60年に1度の開帳で平素は秘仏として、厨子の中に安置されている。 D銅像の聖観音…境内 この銅像も聖観音菩薩であるが潮見観音ではない。御丈169cm、台座2段組。刻銘はない。 E「うないの松」について ◎うなひの松 「現地説明板」 文明八年(1476)四月六日、駿河守護職今川義忠(1436〜76)公を葬った(胴塚)上に植えられた松にて、昔から枝一本折っても「オコリ」をふるったと恐れられていた松であります故、ご注意下さい。 蔵法寺山主 二代目植樹日 平成元年吉日 ※オコリ 「広辞苑」 間欠熱の一つ。隔日または毎日一定時間に発熱する病で、多くはマラリアを指す。わらわやみ。 「オコリぶるい」といわれ、オコリの発熱によって身体がふるえること。 ※今川義忠の五輪塔 義元戦死の地については、小笠町の塩買坂と伝えられ、正林寺裏山には義元の墓(五輪塔)がある。 「国道150号線 沿線の史跡」 (6)小笠町 正林寺の項参照 ◎うない松の歌碑 大松詠 いにしへにありきあらずは知らぬども あてかた人のうなひ松かぜ 遺愛松振勿斧矣 久内和光 潮見坂旧街道の咽頭部(うない)にあたる箇所に立っていた。潮見坂第一の名松であったが、昭和54年(1979)中、松喰虫のために枯れ、今は切り株だけが残る。現在地は寺の境内である。切り株の直径、東西120cm、南北120cm久内和光は当山第十六世嘯雲光均尚。 ◎「うないの松あと」の石碑 文明八年(1476)四月六日、駿河守護職今川義忠(1436〜76)公三遠平定の帰路残敵に討たれこの地に没し、遺骸を葬りしあとに植えられた松なりと伝う。 (注)2,潮見観音縁起書 (注)3,潮見観音ご縁起 (注)4,池田綱政 (4)潮見坂 (現地説明板) 「潮見坂は、街道一の景勝地として数々の紀行文などにその風景が記されています。西国から江戸への道程では、初めて太平洋の大海原や富士山が見ることが出来る場所として、古くから旅人の詩情をくすぐった地であり、今でもその眺望は変らず、訪れる人を楽しませてくれます。浮世絵で有名な安藤広重(1797~1858)もこの絶景には、関心を抱いたようで、遠州灘を背景にその一帯の風景を忠実に描いています。」 (注)5、「東海道名所図会」「江戸参府紀行」に描かれた潮見坂 (注)6,徳川家康(6才)と潮見坂 (5)おんやど白須賀 「パンフレット」参照 湖西市白須賀900 053−579−1777 開館 午前10時〜午後4時 休館日 毎週月曜日 入館料 無料 ※展示概要 ・白須賀宿・汐見坂の紹介 ・津波の記録 ・白須賀宿の文化人等をパネル、写真でわかりやすく説明。 (6)潮見坂公園跡 「現地説明板」 明治天皇(1852〜1912在位1867〜1912)が江戸へ行幸する途中に休まれた潮見坂上は、かつて織田信長が(1534〜82)武田勝頼(1546〜82)を滅ぼして尾張に帰る時、徳川家康(1542〜1616)が茶亭を新築して、信長をもてなした所でもあります。大正十三年四月、町民の勤労奉仕によりこの場所に公園がつくられ、明治天皇御聖跡の碑が建てられました。 現在は、公園敷地に中学校が建てられていて、当時の面影を見ることはできませんが、明治天皇御聖跡碑だけは残されています。 |