1 白須賀宿概要
 東海道・白須賀宿

 1 白須賀宿概要
 (1)宿内人別
 (2)宿内惣家数
 (3)宿場の長さ
 (4)白須賀宿について
 (5)白須賀宿を襲った津波

 2 火鎮神社〜おんやど白須賀
 (1)火鎮神社
 (2)元町の一里塚・高札場跡
 (3)蔵法寺
 (4)潮見坂
 (5)潮見坂公園跡
 (6)おんやど白須賀

 3 潮見坂上石碑群〜火防樹  (1)潮見坂上石碑群
 (2)十王堂
 (3)曲尺手
 (4)夏目甕麿邸跡
 (5)庚申堂
 (6)火防樹
 
  ※参考にした本等

  日本橋から約278km  32番目の宿場
 (1)宿内人別 2704人(男1481人 女1323人)
 
 (2)宿内惣家数 613軒(本陣1 脇本陣1 旅籠27)

 (3)宿場の長さ 東西約1・5km
 
 (4)白須賀宿について 「おんやど白須賀」の展示資料から
  白須賀宿は、汐見坂下の海岸通りに町並みがありましたが、宝永4年(1707)の地震・津波により大きな被害を受け、この汐見坂の上の台地へ宿場の移転がおこなわれました。移転後の町並みは、十四町十九間の長さがあり、道幅は2間でした。東から東町・橋町・伝馬町(東・中・西)・高見町・西町があり、この中に本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠屋27軒・人口は天保14年(1843)の調査では、加宿(かしゅく)境宿新田を含めて2704人、総家数は613軒が軒を連ねていました。宝永5年(1708)に移転したことにより、汐見坂から境宿新田までの限られた地域に宿割をしたためか、間口は平均3、7間であり、元町の4、3間より狭くなっています。

 ※加宿…江戸時代、人家少なく人馬を出しにくい宿駅に、血続きの隣村を加えて宿駅の用を弁じさせたもの。 「広辞苑」

 (5)白須賀を襲った津波  「おんやど白須賀」の展示資料から
  宝永4年(1707)に白須賀宿を襲った津波は、宿場を全滅させる深刻な被害をもたらしました。翌年には津波の被害を避けるため、幕府の助成金を得て、汐見坂下の元町から台地上の現在地へと宿場を移転しました。宿場だけでなく、渥美半島の遠州灘に面した海浜沿いの村々も台地上に移転しています。宝永4年の津波は、それまでにない大きな被害をもたらしたのです。

 (注)1、道中記に見る白須賀