3鹿谷町〜三方原追分 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1姫街道について 2連尺町〜三組町 3鹿谷町〜三方原追分 |
I名残番所(浜松市鹿谷町) 浜松城下への出入口。 ・史料は絵図のみで、古文書・古記録が見当たらない。 ・絵図には「番所」が記入されている。 ・規模は明確でなく、名称も「北番所」「名残番所」「名残口」など様々。 ◎位置的に見て、中部中学校の西北100mに位置する「鹿谷緑地」の一角あたり。」 (注)番所
J名残追分(浜松市鹿谷町) 本坂通と庄内道の分岐点 庄内道は、現在の舘山寺街道とはかなり違っている。本坂通と分かれ佐鳴湖畔の敷知郡富塚村(浜松市富塚町)を経て、同郡堀江村(浜松市館山寺町)に通じていた。 ○道標 三社神社の鳥居の左前、道路に面して立つ。仙台石。 「右 三方原半僧坊 左 庄内道」 ※神社横の道が「庄内道」の起点。
K三社神社(浜松市鹿谷町38−30) ・祭神 天照大神・誉田別命(ほんだわけのみこと=応神天皇) 天児屋根命(あめのこやねのみこと=天岩屋戸前に集える神々の一柱。中臣氏の祖神。) ・由緒 延暦15年(796)坂上田村麻呂(758〜811)東征の途次、岩田海の難を除こうとして勧請したのを里人が請けて奉祀。延元2年(1337)9月、宗良親王(1312〜?)参拝信仰せらる。その折に里人ら粟と小豆を炊いて勧めたところ、親王が大変喜んだ故事により、「粟飯祭」の祭事を9月16日に実施。元亀3年(1572)12月徳川家康(1542〜1616)・武田信玄(1521〜73)との三方原合戦の際に焼失、仮宮で祭祀していたが、寛文8年(1668)一丁ほど南の現在地に移転造営した。時の城主大田備中守をはじめ、代々の城主の崇敬をあつめた。明治7年(1874)浜松県の指示で、三組町の秋葉神社に合併、明治11年(1878)住民の熱意で旧社地に遷座し、今日に至っている。 (注)大田備中守資宗(すけむね) (注)太田摂津守資次(すけつぐ)
L犀ヶ崖資料館 浜松市鹿谷町25番10号 電話053−472−8383 ○ 「犀ヶ崖」 現地説明版 犀ヶ崖と呼ばれる範囲は、はっきりしないが、この付近から下流約450mの間に、急な崖が連続している。この付近では、幅約30m、両岸とも深さ10数mの絶壁をなす。元亀3年(1572)12月22日、徳川家康(1542〜1616)は、三方原において武田信玄(1521〜73)に一戦を挑んで敗け、浜松城に逃げ帰ったが、その夜犀ヶ崖付近で徳川方が、地理に暗い武田方を急襲して、この崖に追い落としたと伝えられる。崖上の宗円堂には、この戦いによる両軍の死者の霊が祀られており、その霊を慰めるため、毎年遠州大念仏が行われる。静岡県指定史跡。 浜松市 犀ヶ崖資料館(旧宗円堂) ○史跡 犀ヶ崖古戦場 現地説明板 制定年月日 昭和14年12月19日 種別 史 跡 制定者 静岡県教育委員会 制定範囲 (略図) 省略 犀ヶ崖古戦場は、元亀3年(1572)12月22日、徳川家康と武田信玄が三方原の戦いの際、このあたりに夜営していた武田勢を徳g川勢が急襲してこれを破った古戦場であり、この時武田方が地理を誤り、この崖に落ちて多くの人馬を失ったと伝えられている。 当時の犀ヶ崖は、東西約2km、幅約50m、両岸は絶壁で、その深さは約40mに及んでいたと伝えられている。 県指定史跡の現況(60年3月現在)は、長さ約116m、幅約29m〜34m、深さ約13mである。 又、崖の上には宗円堂があり、ここに両軍戦死者の霊が祀られ、その慰霊のため創始されたといわれる「遠州大念仏」の道場となっていたが、現在は「犀ヶ崖資料館」として遠州大念仏の資料が展示されている。 なお、指定史跡内で、その現状を変更する場合は、教育委員会の許可を受けなければいけません。 昭和60年3月 浜松市教育委員会 ○犀ヶ崖資料館 「資料館発行のパンフレット」より 資料館は、もと浄土宗の僧・宗円が「三方原の戦い」による死者の霊を供養するために建立したと伝えられる、宗円堂がもとになっている。明治期に入り一時荒廃したが、明治25年再興され、昭和5年(1930)結成された「遠州大念仏団」の本部としてもながく利用されてきた。 昭和11年(1936)本堂改築。昭和47年(1972)3月遠州大念仏を無形民俗文化財に指定し、昭和57年(1982)にはこの建物を資料館として改修し、遠州大念仏及び三方原の戦いに関する資料を展示することにした。 (注)「犀ヶ崖」と「犀ヶ崖」の名の由来について (注)「遠州大念仏」の由来
○資料館周辺の史跡碑 ◆本多肥後守忠真顕彰碑 ★「従是奥 本多肥後守忠真碑」 明治25年建立 ★本多肥後守忠真之碑…明治24年(1981)建立 徳川家達篆額。高さ9尺。幅4尺5寸 碑文撰者 内藤耻叟 ※本多忠真は本多平八郎忠勝(一言坂の戦いで活躍)の叔父。 39歳で討死。 ◇「本多肥後守忠真顕彰碑」 「現地説明板」 この碑は、本多肥後守忠真の忠義を称えて、第17代本多子爵により明治24年(1891)に建立されました。本多忠真は、徳川草創期を支えた徳川四天王の一人である本多忠 勝の叔父にあたる武将です。 本多忠真は、三方原の戦いで武田軍に大敗した徳川軍の中にあって、撤退に際し殿(しんがり)を買ってでました。道の左右に旗指物(はたさしもの)を突き刺し、「ここから後ろへは一歩も引かぬ」と言って、武田勢の中に刀一本で斬りこみ、39歳をもってこの地で討死にしたと伝えられています。 忠真の子、菊丸は父の命により家康を援護し、浜松城に無事退却しましたが、父の最期を前にし友が次々と死んでゆくのを見た彼は無常を感じ、父の遺骸を三河に葬ったあとに出家の道を歩むことになりました。 この碑には、本多家が代々松平家・徳川家に仕えたこと、本多忠真が数々の戦いで功績を残したことが記されています。 また、碑の題字「表忠彰義之碑」は、徳川家16代徳川家達公によって書かれています。
◆「三方原古戦場犀ヶ崖」の史跡碑 石川鴻斎(1833〜1918)の「犀ヶ崖古戦場」と題する詩文が残されている。 明治24年中、鴻斎がこの地に来て「犀ヶ崖古戦場」と題して詩文を草している。 「浜松市史(全)」 大正15年刊 P841 三方原古戦場犀ヶ崖の史跡碑 (注)石川鴻斎 ◆大島蓼太(りょうた=1718〜87)の句碑 「岩角に兜くだけて椿かな」 (注)大島蓼太 蓼太の句碑 ◆「夏目次郎左衛門吉信の旌忠碑」 徳川家達書 昭和10年建立 夏目次郎左衛門吉信は、一向一揆の際捕らえられて処刑される所を、家康の寛大な処置により一命を助けられた。その恩義に報いるため、敗走中の家康の身代わりとなり「我こそは家康なり」といって、犀ヶ崖付近で武田勢の前に立ちふさがり討死した。
◆その他 ◇徳川家達手植えの楠 ◇鼠小僧次郎吉の墓(供養塔)
(注)夏目次郎左衛門吉信旌忠碑 「裏面の碑文」 (注)徳川家達(1863〜1940) M葵東照宮 浜松市葵東1丁目15番地2号 「現地説明板」 ・祭神 徳川家康 ・由緒 明治維新の折、徳川藩士族が三方原に移住し、東照宮大権現を祭神として祀ったのが、其の発端で時に明治5年(1872)であった。後に地元住民が引き継ぎ、昭和49年(1973)10月20日、葵東の氏神として独自の社殿を建立し、毎年8月の祭典、元旦の神事を行っている。 ○万霊供養塔 三方原台地に鎮まる三界の万霊よ安らけく鎮魂給え。祖国を愛し平和を念じて散りし丈夫(ますらお)達、その生前の功績を讃えてその冥福を祈らんとして、有縁の者ここに集いて聖地東照宮境内に、万霊供養塔を建立し、遠く遡っては徳川・武田両勢の果てし武士の霊並に、大東亜戦時中三軍の軍人・軍属として又銃後の民として挺身し、近くは航空自衛隊の殉職者の霊魂よ年代の違いこそあれ、国に捧げ殉ぜる誠心には変わりなく、永遠に世人の鑑としてその栄光を讃え、永えに伝え只管(ひたすら)浄慰霊しその御冥福を祈る。
N権現様跡 浜松市葵東2丁目 「現地説明板」 昔ここに権現様と呼ばれるお宮があった。明治のはじめ、この地に入植した幕臣たちが、徳川家康を祭神として祀ったものである。 境内には、明治の政治家で当時静岡藩知事であった徳川家達手植えの松が、昭和45年(1970)設置された交番・消防派出所が建設されるまであった。現在ご神体は葵東照宮(葵東1丁目)へ、社殿・鳥居・手洗い鉢は「萩の原神社」(葵町西)へ移され祀られている。
N三方原追分(浜松市初生町・葵町・葵1〜2丁目)…「追分三辻」 東海道安間から入り、市野宿(市野町)を経て、宇藤坂(有玉西町)を登り、追分一里塚を過ぎ、西北に延びてきた「姫街道」(安間宿を起点)が、この三方原追分で交差する。 国道257号線と県道磐田・細江線がここで斜めに交差しているが、昔は複雑に交差していた変形十字路、金指方面に向かう一本は若干離れた場所から北に分岐しており、その道幅も狭かった。このため「追分三辻」ともいわれた。
「右みやこだ 中かなさし 左きが道」 慶応4年(1868)建立 三方原追分道標 |
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