(注)「 犀ヶ崖」と 「犀ヶ崖」の名の由来
(1)「犀ヶ崖」について
@布橋伝説 「遠江古跡図会 全」 P40〜41
元亀3年(1572)12月22日に展開された戦いは、武田信玄(1521〜73)の勝利におわり、徳川家康軍は浜松城まで撤退した。
その夜、犀ヶ崖に陣を構えていた武田勢に夜襲をかけ、徳川勢が一矢むくいたのが「犀ヶ崖の戦い」で、この時、敵の目をあざむくため崖に布の橋をかけたという伝え画ある。地理に不案内な武田勢は次々と崖に転落し、死傷したという。
A陣幕説
「往古甲州勢落ちし時、布橋を懸けたるは虚説なり。神君計略に、崖の際に白き幕をを張り、幕の内夥しき挑灯燈したれば、陣屋と甲州勢心得、夜の事にて有り、一人二人づつ押し寄せて、彼の幕をくぐりて入ると直に崖に落ち、段々とか様に落ちしとなり。初め落ちたる者、谷深ければ音もなし。陣屋へ攻め入りしと心得、皆欺かれて落ちしと云う」
(2)「犀ヶ崖」の名の由来
@犀という動物に由来する。 「曳馬拾遺」「遠江国風土記伝」
「犀といふけだもの、この所より出て海に入りけり……」
「古老に日、昔時ながあめふり、風はげしき時、佐伊という獣出、其処陥となる。故、「佐伊之加計」(犀ヶ崖)といふ」
「犀」という獣が出て、一夜で溝(谷)が生じたため「犀ヶ崖」というようになった。
A沖積層の脆い地質に由来する。
この地帯は沖積層の地質の脆い所なので、大雨に洗われて自然にこのような谷が自然にできた。
B「山百合」に由来する
昔から古語に「山百合」のことを「さゐ」(さい)と言っていたことから、この地方が「山百合」が多いことから「犀ヶ崖」といわれるようになった。
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