(注)鈴木重胤(1812〜63) 江戸後期の国学者。幼名雄三郎。通称勝右衛門、府生、一平。号は巌橿本(いつかしもと)橿廼舎(かしのや)、柱州。姓は穂積。家は代々淡路国津名郡仁井村の庄屋。 父は重威、母は麗子。14才頃から大阪鴻池家、神戸村橋本家に寄寓し、商業見習いをし、諸学を習得。のち国学に志し、天保3年(1832)平田門に入門。次いで同5年〜6年頃、大国隆正(1792〜1871)に入門。同14年平田篤胤(1776〜1843)を秋田に訪ねたがすでに病死していたために、墓前で没後の門人となった。 江戸に定住し、嘉永元年(1848)「延喜式祝詞講義」を起稿、同2年「世継草」、同6年から「日本書紀伝」の著述を始め、篤胤の学説を批判したため安政4年(1857)篤胤の養子・銕胤(かねたね)らと不和となり、翌年平田家から破門された。 その後、江戸在住中本所の小梅の自宅で、何者かの手により暗殺された。墓は東京都杉並区長延寺にある。 なお淡路市立北淡歴史民俗資料館には、親族の寄贈になる鈴木重胤の遺品が所蔵されている。 「ブリタニカ国際大百科事典」他参照。 |