(注)徳川秀忠(1579〜1632) 長松・竹千代・法名台徳院。徳川家康(1542〜1615)の三男。母は側室宝台院西郷氏。家康の嫡男信康(1559〜79)が先に死に、また二男秀康(1574〜1607)が豊臣秀吉(1537〜98)、ついで結城晴朝の養子となったため、継嗣として浮かび上がった。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに一軍を率いて中山道を攻め上がったが、信濃上田で真田昌幸(1547〜1611)・信繁(幸村=1567〜1615)父子に阻止されて合戦に間に合わず、家康の不興を買った。このとき継嗣に兄・秀康を推す動きがあったが、本多正純(1565〜1637)らの斡旋で事なきを得たという。同10年(1605)征夷大将軍後、なお家康が大御所として実権を握り、武家諸法度など重要政策は家康の意図に出されたものが多い。穏健篤実な人柄で、家康の没後はその遺命をよく守り、幕府の基礎を固めた。寛永9年(1632)家光に将軍職を譲り、大御所としてこれを後見した。寛永9年(1632)1月24日没。芝の増上寺に葬る。 (注)松平忠吉(1580〜1607) 家康の四男。母は西郷局。妻は井伊直政(1561〜1602)の娘。秀忠の弟。一族の東条松平家の名跡を嗣ぐ。武蔵忍10万石(埼玉県行田市)を経て尾張清洲(愛知県西春日井郡)で52万石を領した。「関ヶ原の戦い」(1600)では敗走する島津勢を、義父井伊直政と共に激闘を演じ負傷戦場の加増で薩摩守62万石となる。慶長9年(1604)頃より病に悩まされ、慶長12年(1607)3月5日江戸へ出府しての帰途、芝浦(東京都港区東部)で没した。墓は愛知県豊田市隣松寺・名古屋市千種区性高院、東京都港区の芝増上寺にある。法名「性高院殿憲瑩玄伯」。 |