★徳川秀忠公誕生の井戸…常磐町 (注)@西郷局について 掛川市構江地区の「西郷局」ゆかりの遺跡。 ☆西郷局居宅跡…掛川市現構江公民館の敷地(「西郷斎宮」という小祠あり) ☆戸塚五郎忠春と一族の墓碑…碧岩山観音寺(廃寺)跡、背後の山裾。 五輪塔が忠春の墓ではないかとおもわれる。欠落部分があって不明だ が往事は2m位あったのではないかと思われる。 ☆宝篋印塔…西郷局の従姉妹(忠春の妹)「於國(おくに)」の墓 ◎「西郷局(於愛の方)」生誕の地 「現地説明板」より 徳川二代将軍秀忠公の御生母で、実父は掛川在、戸塚に住んだ郷士夫 忠春、実母は三河五本松城主・西郷弾正左衛門正勝の娘で、戸塚家に嫁 いだ。天文23年(1554)戸塚五郎忠春は「大森の戦い」で戦死。 その後、於愛(西郷局)の母は、やむなく於愛を連れて、服部平太正尚と再婚したが、於愛もまた外祖父・西郷弾正左衛門正勝の孫・義勝に嫁ぎ、二児をもうけた。しかし、元亀2年(1571)3月4日、夫の義勝が「竹広の戦い」で戦死したので、伯父西郷清員(正勝の子供)の養女となった。その後浜松城に出仕して家康の目にとまり側室となった。家康と西郷局の子供は、二代将軍秀忠公・天正7年(1579)4月4日生。尾張藩主忠吉公・天正8年(1580)9月7日生。西郷局は、天正17年(1589)5月19日、浜松城内において病死、年38歳。秀忠公、二代将軍になると勅許を得て、「従一位一品大夫人」を贈る。竜泉寺は西郷局の法名をとり、寺名を宝台院と改め。三百石の寺領を与えられる。 (注)A金米山宝台院…静岡市常磐町 「現地説明板」 宝台院は、徳川家康の側室で二代将軍秀忠の生母・西郷局(お愛の方)の菩提寺である。西郷局は27歳で家康に仕え、翌天正7年(1579)4月、家康の第三子秀忠を生んだ。家康38歳のときである。 この頃、家康にとっては浜松城にあって「三方原の戦い」(152)「設楽原合戦」(1575)「小牧長久手の合戦」(1584)と戦争に明け暮れ最も苦難な時代であった。西郷局は、家康の浜松城時代に仕え、苦しい浜松城の台所を仕切っていた文字通り、糟糠の妻であったということができる。天正14年(1586)12月、西郷局は長かった苦難の濱松時代を終え、名実共に東海一の実力者となった家康と共に駿府入りをした。家康の蔭の立役者として、献身的に仕えた西郷局は、駿府入りとともに濱松時代の疲れが出て、天正17年(1589)5月、38歳の短い生涯を終えた。後年、将軍職についた秀忠は、母のために盛大な法要を営み。その霊を慰めた。以来徳川三百年の間、この宝台院は徳川家の厚い保護を受けたのである。寺宝 白木尊如来像(重要文化財) ほか多数 静岡市 (注)B2つの「西郷局」生誕説 A・服部正尚の女(娘)とする説 B・掛川構江の地侍戸塚五郎太夫忠春(今川氏に仕えた)と西郷弾正正勝(三河嵩山(すせ)の土豪)との間に生まれたとする説。 (注)C西郷局の人柄について 於愛は、家康の側室としては珍しく美人で、おっとりした人柄であったようだ。そのためか数多くいる側室のうちで、家康に最も愛された。また家臣や次女にも好かれたと伝えられる。 |