(注)行基(668〜749) 奈良時代の僧。俗姓高志(こし)氏。15歳で出家。薬師寺で義(ぎ)淵(えん)らについて法相(ほっそう)を学び、さらに山林で禅定(ぜんじょう)を修めた。母の忌服を終え、諸国を遊歴して「自行化他」(じぎょうけた)に励み、これに従う者1000人を超えたという。弟子を連れて各所に橋を造り、堤を築いた。瀬戸内海に五泊(ごとまり)を開いたのもその一例である。各地に布施屋(無料宿泊所)をつくり、摂津(せっつ)(大阪府北部と兵庫県東部)に田150町を開墾し、さらに各地に道場(僧尼院)建て、畿内にあるものだけでも49ヶ所に及んだ(四十九院)。このように宗教活動は朝廷によってきびしい弾圧がくわえられ、養老元年(717)4月の詔となって現れた。詔は行基や弟子達が巷でみだりに罪福を説き、家ごとに説教して歩き、施し物を強要し、聖道と称して民衆を惑わし、ために民衆が生業を捨てて行基に従ったので禁止するというものであった。しかし、朝廷は彼らの勢力を無視することが出来ず、天平3年(731)行基について修業するもので、男は61歳以上、女は55歳以上の者に入道することを許可した。同15年(743)彼は当時行われていた東大寺大造営のため、諸方を勧誘して歩くことになった。彼が以前から培っていた勢力が、大仏造営に利用されたわけである。同年1月21日前例のない大僧正に任ぜられ、宗教上の最高の地位に立った。同21年(749)聖武天皇以下に菩薩戒を授けてのち、菅原寺の東南院で80歳の生涯を閉じた。彼にまつわる多くの霊験譚が伝えられ、また当時の人々は彼を、行基菩薩と称したと伝えられる。 ◆義(ぎ)淵(えん) 奈良前期の法相宗の僧。大和の人。元興寺の智鳳凰に師事。吉野に竜門寺を開いて法相宗を弘め、僧正まで進む。また岡寺を開き、聖武天皇から岡連(おかのむらじ)の姓を授けられた。門下から行基・玄ム(げんぼう)(?〜746)・良(ろう)弁(べん)(689〜773)などを輩出した。 |