(注)大久保忠教と堀尾吉晴 ○大久保忠教(1560〜39) 通称彦左衛門。江戸時代初期の旗本。忠員の8男、初め忠雄、のち忠教、字は平助。天正4年(1576)16歳の初陣に戦功を挙げ、旗本に列せられ、以来徳川家康に仕えて功績があった。大名になること を固辞し「天下のご意見番」として、家康の諮問に答えたという。のち、秀忠・家光に仕え戦国時代生き残りの勇士として、旗本の中に重きをなした。その著「三河物語」(3巻)はいわゆる三河節の精神を典型的に示したものである。禄高は三河額田郡に2000石。邸跡が東京都千代田区神田駿河台にある。 ※一心太助 江戸時代初期の江戸の魚屋といわれ、小説・戯曲に登場する人物。歌舞伎では河竹黙阿弥作「芽出柳緑翠松前(めだしやなぎみどりのまつまえ)」で活躍。義侠心に富み、江戸っ子の典型。腕に「一心白道」の4文字を彫る。大久保彦左衛門忠教の愛顧を受けたという。東京都の立行寺に墓がある。 ○堀尾吉晴(1543〜1611) 安土桃山時代の武将。通称茂助。吉定、吉直、可晴ともいった。康晴の子。織田信長・豊臣秀吉に仕え、斎藤氏征討、近江攻めなどに功績があり、若狭高浜、近江佐和山を領し、天正18年(1590)遠江浜松12万石を与えられ、慶長3年(1598)中老、のち越前府中5万石を付加された。関ヶ原の戦いの後、家督を子の忠氏に譲ったが、同5年出雲松江24万石を受けた忠氏が同9年(1604)死去したので、孫の忠晴の後見として松江城築城など、その政治にあずかった。忠晴没後廃絶。 |