(注)本多平八郎(忠勝・1548〜1610) 安土桃山時代の武将。忠高の子。通称平八郎。幼少から徳川家康に仕え、しばしば戦功を立てた。50回余の合戦に参加し、特に天正3年(1575)の長篠の戦い(設楽・長篠の戦い)、同12年の小牧・長久手の戦いには大功をたてた。同16年家康に従って上洛した際、中務大輔に任じられた。同18年8月家康が関東に入ると、上総(千葉県)大多喜城一万石を与えられ、慶応5年(1600)関ヶ原の戦いでは、岐阜城を陥れ、進んで関ヶ原に戦って功を立てた。同6年伊勢(三重県)桑名に10万石を与えられた。 井伊直政・榊原康政・酒井忠次とともに「徳川四天王」の一人。勇猛果敢な性格で、主として軍事面で家康を支えた。「本多平八郎絵姿屏風」は若いときの忠勝を描いた物というが確証はない。 「ブリタニカ国際大百科事典」 |