(注)平 重盛(1138〜79) 平安時代末期の武将。清盛の子。12歳で蔵人となって以来、保元・平治の乱(1556・59)で父清盛に従って活躍。長寛元年(1163)従三位に叙せられる。平氏政権確立とともに、官位が累進し、仁安2年(1167)従二位権大納言、翌年病により官を辞したが、承安元年(1171)権大納言に復し、治承元年(1177)正二位内大臣左近衛大将。小松第にいたので「小松内府」と呼ばれた。鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀事件(1177)で後白河法皇(1127〜92・天皇在位1155〜58・69年以降法皇)を幽閉しようとする父をいさめて、法皇の罪を不問とした。同3年(1179)病のため職を辞し入道(出家)した。「平家物語」には、道理をわきまえた人物として描かれている。 (注)磐田市内に見る、重盛創建といわれる三ヶ寺(「遠州の三連寺」) 平重盛が父清盛(1138〜79)の専制に不満をもつ人々の報復を恐れて諸国に三ヶ寺を建てて冥福を祈ったといわれる。 @三白山連城寺 ◎清盛(1118〜81)・重盛(1138〜79)の位牌と供養塔 ☆位牌名 祖父太政大臣 平朝臣清盛公 城海大居士 両台霊 小松内大臣 重盛公 城連大居士 ☆供養塔 秋葉山古墳の中腹 ◎寺宝 「三角縁四神四獣鏡」(県指定文化財) 直径22cm、青銅製、「経塚古墳」より発見。 ◎連城寺古墳群…連城寺の裏山(国指定) 「秋葉山古墳」(円墳)・稲荷山古墳(前方後円墳)・経塚古墳(前方後円墳) ◎大草太郎左衛門の墓…裏山墓地 家康の小姓であった大草太郎左衛門が新貝村の豪族・水田三郎二郎の婿養子(家康の命)になり、代々大草太郎左衛門を襲名した。新貝村在陣中の大草氏は、代々中泉代官を勤めたが、土地の開墾・農業用水・灌漑施設・橋梁の架設等に尽力し、特に農業開発に功績があったという。 また、神社仏閣の再興、特に私財を投じて貧民救済に当たった。新貝村の邸は明和年間(1764〜71)に廃し、中泉陣屋に移った。太田川沿いの新貝小字駒洗に大草代官屋敷跡がある。 A龍池山連福寺 ◎平重盛の供養塔 ◎連福寺古墳 径50m以上の円墳か全長50m以上の前方後円墳? 「三角縁三神五獣鏡」出土。 ◎閻魔堂 「木造閻魔大王坐像」(指定文化財)鎌倉末期〜室町初期の作。高さ180cm。閻魔堂の扁額は山岡鉄舟(1836〜88)の書。B瑞嶽山蓮覚寺 B瑞嶽山蓮覚寺 安元元年(1175)平の重盛(1138〜79)が遠江国守として見付国府在任中に開いた遠州三連寺の一つとして創建したと伝えられる。創建時は、真言宗で現在地より東500mにあったが、南北朝時代(1332〜91)臨済宗に、天正十三年(1585)曹洞宗に改宗し、天龍村の郷士門奈美作守左衛門が経営する聖寿寺の末寺となった。元禄十三年(1700)雷のため焼失し、現在地に移転した。 現在の本堂は、文化十三年(1816)、表門は掛塚住人大工小栗博吉により、天保十三年(1842)に建立され、安政の大地震(1854)で倒壊したため、そのまま引き起こし、参道が変わったため、明治十年(1878)現在地に移転した。 山門の様式は「薬医門」で町内最大最古の山門である。 |