(注)2,松島十湖(じっこ=1849〜1926) 俳人・報徳運動家・政治家。松島源左衛門の長男として豊田郡中善地村(浜松市)に生まれる。幼名吉太郎、吉兵衛、のち吉平と改称。俳号大蕉庵十湖。 城東郡笠原村(旧小笠郡大須賀町・現掛川市)撰要寺住職戒誉玄常に書、法典の教えを受け、のち国学を有賀豊秋(1790〜1882)に、漢籍・詩文を高橋月査・小栗松靄(しょうあい=1814〜94)に学ぶ。15歳で俳諧を栩木夷白(とちぎいはく=1797〜1876)に学び、夷白死後は伊藤嵐牛(らんぎゅう)橘田春湖に教えを受けた。 俳人としての十湖は、全国的に門人を数え、地方俳壇の一つの尾根を形ずくっていた。句碑は全国にある。 十湖には二つの面があった。一つは句作による芭蕉文学に傾倒する精神的なもの。もう一つは二宮尊徳を崇拝して経済・道徳によって指導する実践的なものである。 十湖の句に教訓的なものが多いといわれるのも、この二つが統一された焦点にあるかのように思われる。また小田原の報徳学者福山滝助について報徳思想を学び、1868(明治元年)中善地村報徳社を組織、営繕司に一時出仕。1872年(明治5)報徳遠譲社を結成、社長となる。翌年より戸長、恒武(つねたけ)学校幹事、区会・村会議員を務め、1879年(明治12)引佐・あら玉郡長となる。1885年(明治18)西遠農書館を創設、1889年(明治22)遠陽大同倶楽部を組織、翌年大同倶楽部に加盟、再び県会議員となる。 「静岡県 歴史人物事典」P433 |