(注)15、馬郡観音堂 @「遠江國風土記伝」の記述 復刻版 P90 観音堂 坪井村に在り。 曳馬拾遺に云ふ「源親行の東関紀行に曰く、まい澤の原といふ所に来にけり、遠き野原なればつくづくと詠め行くほどに、打連たる旅人の語るをきけば、此原に木像の観音おはします。御堂なと朽わたりけり云々と、一年望むこと有て、鎌倉へ下る、筑紫人ありけり、此観音の御前に参りけるか、もし此本意をとげ故郷へ向はば御堂を作るべしと心のうちに申置て侍りけり、鎌倉にて望む事叶ひけるに依って、御堂を造りけるより人々参るとぞいふなる、其御堂へ参りたれば、願書とおぼしきもの戸張の紐に結び付けたれば、廣く其深き事海の如しと云へり、たのもしと覚えて、 「たのもしな入江に立る身をつくし深きしるしのありときくにも」 とぞ。 A「東海道名所図会」の記述 舞沢の東、馬郡村にあり。土人マンゴオリという。大悲院と号す。右の記に見えたる観音なり、定朝(?〜1057)作という。長(みたけ)一尺二寸五分。 「新訂 東海道名所図会」(中) P182 |