(注)14,篠原の地名の由来と言い伝え @「遠江國風土記伝」の記述 「昔は今切の海中に在り、長里と号す。水没して茲に移り、篠を刈り田を墾(ほ)って五十余戸住み、篠原村と号す」 A「篠原村誌」の記述 「長里郷は、昔は舞坂町弁天島北方にあったといわれ、明応7年(1498)と永正7年(1510)の二度の大地震・大津波で水没したという。この大災害から命の助かった住民たちが、湖の東に避難し住み着いて新しい村を作った。そこには、小笹(篠)が一面に生い茂る原野であったことから「篠原」の地名がついた。 ※「篠」…「篠竹」(しのだけ)の略。全体に細く小さい竹。「笹」などの俗称。 B「篠原」について三つの言い伝え (ア) 長福寺の「藪地蔵」に関するもの 昔、長福寺は長里郷にあったが、明応7年(1498)の大地震・大津波により、7軒の人達が現在の国方あたりへ漂着し、新しい里を作った。その時、何物にも代え難い大切な物として、背負われて来たのが「藪地蔵」だといわれている。舞坂小学校北方に「長福寺裏」の地名や、舞坂町地内に残る「篠原町飛地」にこの言い伝えを偲ばせる。 (イ) 仲村の八坂神社に伝わる話 八坂神社は江戸時代までは、「牛頭天王社」と称し、長里郷にあった。永正7年(1510)の大地震・大津波で長里郷は水没、社司・信者達十余名はご神体を護持し、流木に助けられ現在地に漂着、ここに小さな祠を造り、新しい里をつくった。 (ウ) 篠原東の本村の旧家鈴木家に伝わる話 応永19年(1411)に、地震による移住でなく、篠原鈴木の始祖と伝えられる。鈴木喜内左衛門重信の子孫、喜六郎重尚が家督を弟に譲り、開墾のため長里郷より移住した。そして他よりも古く住み着いたことにより、ここを「本村」と称したと伝えられる。 ※篠原には昔、西・中・東と三つの里があったようで、それらの子孫たちがやがて一つになり、篠原村を作ってきたといえる。 |