※田沼意次の一族
 @田沼意(おき)知(とも)(1749−84)
   田沼意次の長男。寛延2年(1749)生まれ。十代将軍家(いえ)治(はる)に仕え、奏 者番を経て天明3年(1783)若年寄に昇進した。意次に勝る頭脳と政治力を持って、  将を嘱望されたが、天明4年(1784)佐野善左衛門政言に私怨から殿中で斬りつけら れ、それがもとで数日後死亡。35才。
 
 A田沼意正(1754−1836)玄(げん)蕃(ばの)頭(かみ)
   意次の四男。下村藩主。文政2年(1819)若年寄に就任。将軍家(いえ)斉(なり)(1 773−1841在職1787−1837)が、若年寄就任の功により、 加増しようとしたとき 、意正は「父意次の城下であった相良藩主にして下さらば、加増は遠慮申し上げる。」と 言上した。その結果文政6年(1823)一万石で相良藩主になった。相良城は既に岡部 美濃守によって、破却されていたので、旧二の丸に陣屋を造って執務した。意正は田沼 氏中興の祖となり、以来意留・意尊賭博末まで、三代四十五年間相良藩主となった。こ れを後代田沼氏と呼ぶ。

 B田沼意尊(玄蕃頭)
  意留の嫡男。相良藩主1万石。文久元年(1861)若年寄。源氏武田耕雲斉に率いら れた実との天狗党が乱を起こし、幕府は老中格の田沼意尊に、天狗党討伐総督を命じ たため、これを追って越前で平定した。この軍資金として相良藩民有志は六百両を調達 した。明治元年(1868)上總国小久保藩主を命ぜられた。(現千葉県宮津市)。明治2 年(1869)小久保藩知事。明治2年(1869)12月没す。51才。墓は駒込勝林寺。国道150号線〜沿線の史跡を訪ねて〜 7相良町