(注)田沼意次の政策と相良における藩政
(1)田沼意次(1719〜88)
  江戸時代中期の幕府老中。田沼意行(もとゆき)の子。父は紀州藩の足軽で、徳川吉 宗に従って江戸に入り幕臣(旗本)となった。意次は15才の時西の丸つき小姓として仕 え、元文2年(1737)主殿(とのものかみ)、宝暦元年(1751)御側御用次となった。9 代将軍家治の信任を得て、明和4年(1767)7月側用人に進み、1772年老中、83年 長子意知(おきとも)を若年寄りとして勢力をきわめた。しかし賄賂が横行し、政治への 批判も強まり、遠江相良(5万7000石)に城を築き専横の振る舞いがあった。こ1786 年、家治の没後は領知も削られ失脚。意次が政治を担当した時代を、田沼時代といい、 商品経済を助長し商業資本と結んで幕府財政を再建しようと試みたが、天明の飢饉で 農村が荒廃し、百姓一揆・打ちこわしの続出する中で幕府に避難が集中した。
(2)意次の政策
 @通貨の一元化…金貨・銀貨との交換
 A中国貿易の振興…「三国丸」の建造
 B新田開発…印旛沼・手賀沼の開発
 C蝦夷地(北海道)の開発
 D税の創設…商工業者への事業税
 E文化の奨励…杉田玄白(1733−1817)・平賀源内(1727−1779)をブレーンと          して引き立て、蘭学発展の基礎を築く。
(3)相良における藩政
 @下町の整備
   道路は駿府(静岡市)と同じ4間道路にし、わら屋根の家を瓦似かえさせ(貧しい人  には金を与えた)、萩間川左岸を埋め立て湊橋を架けた。
 A産業の奨励
   桑を植えさせ、養蚕を奨励。塩づくり、瓦の製造を勧めた。
 B飢饉対策
   天明の飢饉の時、男は2合、女は米1合の割合で50日分の金を貸し与え、願い書  を出せば返さなくてもよいようにした。