(注)森 鴎外(1862〜1922) 小説家・評論家・翻訳家・軍事総監。本名林太郎。石見津和野藩の御典医(江戸時代幕府・大名のお抱え医師)の長男として津和野に生まれた。東大医学部卒業(1881=19才)後陸軍軍医となり、ドイツ留学(22才〜26才=1884〜88)、1889年(27才)の時、磐田市の海軍中将赤松則良の長女・登志子と結婚(翌年離婚)。1890年(28才)「舞姫」(鴎外の処女作)を書き、アンデルセンの長編小説「即興詩人」翻訳。1891年(29才)坪内逍遙(1859〜1935)と「没理想論争」を行った。日清戦争(1894〜5)に出征、帰国して「めさまし草」を創刊。1899年(37才)小倉に転勤(左遷)したが、1902年に戻り、荒木博臣の娘志げと再婚。日露戦争(1904〜5)に従軍。「スバル」創刊(1909)後は、これを舞台に活躍し、「ヰタセクスアリス」(1909)「青年」(1910〜11)「雁」(1911)などを発表した。乃木希典(1849〜1912)大将の殉死に深い感銘をうけ、これを機に歴史小説を書き始め・「興津弥五右衛門の遺書」(1912)「阿部一族」(1913)「高瀬舟」(1916)などを書き、さらに史伝小説「渋江抽斎」(1916)を書いた。このように日本近代文学の様々な領域を切り拓き、夏目漱石(1867〜1916)と並び称された。 ◎遺言要旨 ●死は一切を打ち切る十代事件 ●石見の人森林太郎として死ぬ ●墓碑銘は「森林太郎」の五字 ●宮内省・陸軍の栄典は断固拒絶 ※遺言通りの墓が東京三鷹の「禅林寺」と故郷津和野の「永明寺」にある (注)赤松則良(1841〜1920) 明治期の海軍軍人。造船技術者。静岡藩士、幕臣吉沢雄之進の子。実祖父赤松泰助の養嗣子となる。旧名大三郎。1857年(安政4)蕃書調所句読教授方出役に任命された。また長崎海軍伝習所に学び、軍艦操練所教授を務め、1860年(万延元年)咸臨丸の測量方兼運用方として太平洋横断、1862年(文久2)幕府留学生としてオランダに留学し造船学を習得。大政奉還の報で急遽帰国、徳川家の移封に従い遠州見付(磐田市見付)に移住。静岡藩の沼津兵学校教授に招かれ、兵学校の運営にあたった。ついで海軍兵学寮教授、海軍少将・海軍大丞・横須賀造船所長・海軍省副官・主船局長・機関本部長・国防会議議員・海軍造船会議議長・兵器会義議長等を歴任し、1887年男爵・海軍中将となり、1892年予備役となり見付に隠棲した。1897年〜1917年まで貴族院議員を務めた。孫の照彦は磐田市長・磐田東高校理事長・校長を務めた。見付の赤松邸跡は整備され一般公開されている。 「静岡県歴史人物事典」他より |