(注)「本陣」について 江戸時代、五街道等の宿場に設けられ大名・公家・幕府役人などが宿泊した施設。「大名宿」ともいう。名称の起源は室町幕府二代将軍足利義(よし)詮(あきら)(1358-67)の上洛(じょうらく)(京都へ行くこと)の時、その旅宿を「本陣」と称して「宿(やど)札(ふだ)」を掲げたのが始まりという。本陣に宿泊者が多く、対応しきれなくなったとき、本陣の代わりとして利用されたのが脇本陣である。 近世以前は、街道の山越え、渡し、街道の分岐点などに設けられていたが、近世の東海道の宿駅には、本陣・脇本陣が必ず設けられ、大名の参勤交代らに機能を発揮した。宿場の旧家が充てられ建物は「書院造り」で「門構え」「玄関」「部屋」(上段の間・控えの間)「湯殿」「庭」などがある広大なものもあった。本陣・脇本陣は土地の富豪から選ばれ「苗字(みょうじ)(名字)帯刀(たいとう)」を許されて宿でも大きな力をもっていたが、宿泊する大名たちの藩財政が窮乏化するにつれ、本陣業務も営利にならずこれを補うため一般旅行者を宿泊させることもしばしばであった。東海道では、現在本陣は二川(愛知県豊橋市)、土山(滋賀県土山町)、草津(滋賀県草津市)の3ヶ所、脇本陣は、舞阪宿(浜名郡舞阪町)に現存している。 ※五街道‥‥江戸時代、江戸日本橋を起点とした「東海道」「中山道」「甲州道中」「日光道中」「奥州道中」をいう。幕府は政治・軍事上の必要からこれを直轄、道中奉行の管轄下に宿駅などを整備し、一方関所を設けて統制を厳重にした。そのため参勤交代など主として公用に利用、一般の旅人は脇往還を多く通った。 ※足利義(よし)詮(あきら)‥‥足利尊(たか)氏(うじ)(1330-67)の3男。義満(1358-1408)の父。1333年新田義貞(1301-38)の鎌倉攻めに父の名代(みょうだい)(代理)として加わり、北条氏を滅ぼした。尊氏の幕府開設後も関東の主として鎌倉にあり、尊氏の死後1358年将軍となった。 |