(注)5,道中記に描かれた新居宿と関所
@「東海道名所記」‥‥万治年間(1658~1661)浅井了意著
 「楽阿弥申すよう、舞阪より舟に乗るに七ツ自分よりまへには渡しあり、七ツ時分過ぎたれば、舟をいださずといふ。はやくのり給へとて、男と共にいそぎ船に飛び乗る。艫(とも=船尾)のかた棹ひろくて、ゆるりとのりけり。船頭は舟に棹さし櫓ををす。男たづねけるはいかに船頭殿、この海を今切と名付けたるよし‥‥‥」
  A「東海道名所図会」‥‥寛政9年(1797) 秋里籬島著
「荒井―荒堰または新居とも書す。旧名猪鼻駅(いにはなえき).。大略、今の荒井の北方坂路をさす。此地京師(けいし)より江戸までの間にて南へ寄るの究竟(くっきょう)也。是より江府は東北に当たる。舞阪まで海上壱里。船場に看街楼(かんがいろう=関所のこと)あり、往来の人ここより渡船にて舞阪に着す。」
B「改元紀行」‥寛政13年(1801) 大田南畝(なんぽ=蜀山人)著
 「向ひに人家の如きもの見ゆるは、荒井の御関所なりなど聞くも頼もしく、兎角する間に早対ひの河原につく。此処にて従者をも召具して輿より下り、御関所の前を過ぐ。参州吉田の城主より守れるといふ。宿はむなぎ(うなぎ)よろしと聞きて、或酒家に立寄て食すに味殊に良し。駿河なる柏原の物と同日の論にあらず。橋本という所に「浜名の橋」の跡あり‥‥‥」
C「ケンペル江戸参府旅行日記」 元禄4年(1691) 
長崎〜江戸往復の紀行文
 「新居は外海のすぐ近くの小さな入江の狭くなった所にあり、約400戸の家がある。ここではすべての旅行者、とりわけ大名の荷物が、幕府から任命された役人によって検査される。また、それは大名の夫人がそっと通りぬけたり、銃や武器の類がひそかに運ばれるのを防ぐためである。こういう意図は、将軍の政策上の原則である。なぜならば、婦人について言うと、大名たちは自分の妻をいつも、将軍の住所地に残し、それで自分の家族をいわば将軍の人質として留めておかねばならないからである。こえは大名たちが、将軍に忠誠を尽くそうとしていることの証である。これに反して銃や武器を通さないのは、将軍に対し何も企てることができず、反乱のあらゆる機会を断つということからきている。われわれの荷物は別に開きもせず、ちょっと見ただけであった。」
D「諸国道中袖鏡」 天保10年(1839)刊
 「御番所有、女・武具御改有也。吉田の城主より勤番也」
  ※女・武具改‥‥「入鉄砲に出女」の取り締まり。
E「五海道道中細見独案内」 安政2年(1855)刊
 「御関所上下共男は我が所をなのり、其行先をいつわりなく申上て通るべし。女は上下共御手形上るなり」